素堂の俳諧感
素堂の俳諧感 素堂の俳諧感が遺憾なく現れているのが貞享四年(1687)其角の編んだ『続虚栗』の序文である。これは一部の識者も認めている「不易流行」論は、芭蕉に先がけ素堂が唱えたことである。芭蕉没後の門弟たちの「芭蕉俳論」の根底をなす俳論の裏側には素堂の考えが横たわっていたのである。 『続虚栗』の序は本文を参照していただくこととするが、その旨は、...
View Article山口素堂 『冬かつら』杉風編。芭蕉七回忌
山口素堂 『冬かつら』杉風編。芭蕉七回忌追善集 素堂七唱 素堂59才 元禄十三年(1670) ことしかみな月中二日、芭蕉翁の七回忌とて、翁の住捨ける庵にむつまじきかぎりしたひて入て、堂あれども人は昔にあらじといへるふるごとの、先思ひ出られた涙下りぬ。空蝉のもぬけしあとの宿ながらも、猶人がらなつかしくて、人々句をつらね、筆を染て、志をあらはされけり。予も又、ふるき世の友とて、七唱をそなへさりぬ。其一...
View Article★延宝二年(1674)33才。季吟編。《信章歓迎百韻》
★延宝二年(1674)33才・「廿回集」北村季吟編素堂……『廿會集』入集。季吟編。《信章歓迎百韻》(抜粋掲載)霜月三日江戸より信章のぼりて興行(付句十一 抜粋)1 いや見せじ富士を見た目にひえ(比叡)の月 季吟2 世上ハ霜枯こや都草 信章3 冬牡丹はなハだおしゝはやらせて 湖春10 下戸ならぬこそ友にはよけれ 季吟11 打わすれ橋はこえても法ハこえじ...
View Article素堂事績 貞享1年 甲子(1684)43才
貞享1年 甲子(1684)素堂43才 ◇ 素堂、『孤松』尚白編。発句二入集。雨の蛙こは高になるもあはれ也寒くとも三日月見よと落葉哉...
View Article素堂事績 貞享2年 乙丑(1685)44才
貞享2年 乙丑(1685)44才 素堂……『稲筵』清風編。発句一入集。素堂……春、四月、芭蕉の「甲子吟行」よりの帰庵を祝って句を贈る。いつか花に茶の羽織檜笠みん 素堂……六月二日、小石川に於て『古式之百韻』鈴木清風編。付句十三入集。 凉しさの凝くだくるか水車 清風 青鷺草を見こす朝月...
View Article素堂、江戸の家・茶道今日庵について
素堂、江戸の家・茶道今日庵について素堂、七月、山田宗偏著の『利休茶道具図絵』の序文を著す。 宗偏は延宝八年(1680)に『茶道便蒙抄』、元禄四年(1691)に『茶道要録』を書す。(未見) 序文「喫茶の友……」「元禄壬午夷則上旬濺筆於円荷露葛村隠士素堂」 (壬午夷則-十五年七月) 素堂、素堂には茶道書関係の文書が三篇ある。『鳳茗記』・『茶入 號朝山』それに『利休茶道具図絵』の序である。...
View Article『俳聖芭蕉』野田要吉氏(別天楼)著 素堂のこと
『俳聖芭蕉』野田要吉氏(別天楼)著 昭和19年刊。理想社発行 延宝時代桃青の連句 宗鑑守武等の興した俳譜は俳諧連歌のことで、滑稽體の連歌といふ意味である。俳諧といへば、その初頭の長句、即十七句の発句と、之に続く短句、十四字の脇句より以下の附合全體を総括した名称であるが、近来は俳諧のことを一般に連句と称えているから、私も連句と呼ぶことにする。...
View Article山口素堂 俳諧大辞典 明治書院 昭和三十二年発行
俳諧大辞典 明治書院 昭和三十二年発行俳人。山口氏。名は信章。字は子晋、文、公商。通称、勘兵衛(異説もある)。別号、来雪・松子・素仙堂・蓮池翁。又、茶道の号に今日庵・其日庵。覚永十九年(一六四二)五月五日生、享保元年(一七一六)八月十五日没、年七十五。墓、上野谷中感応寺中瑞音院。...
View Article素堂の生まれたところは現在の白州町山口か?
素堂の生まれたところは現在の白州町山口か? 今日も素堂について尋ねてきた人が居られたが、私は応対に困惑した。「素堂は白州町山口の碑の所で生まれたのですか」『甲斐国志』以来、河川工事の現場監督の位置を与えられた素堂は現在でもその位置を保っている。度重なる紹介から生まれた素堂に対する大きな誤解、誤伝を疑う人は少ない。...
View Article甲斐府中山口屋と素堂の関係は資料には見えない
甲斐府中山口屋と素堂の関係は資料には見えない さて甲斐府中(甲府)の魚町に在った魚町酒造業山口屋市右衛門家は本当に素堂の生家なのであろうか。これも『国志』の記述が現在では通説となっているが、その記述には曖昧さが感じられる。 先にも示した『連俳睦百韻』(佐々木来雪、三世素堂号襲名記念俳諧集)の序文を著した寺町百庵は『俳文学大辞典』によると、素堂の家系にあり、『連俳睦百韻』...
View Article甲斐濁川と素堂
元禄時代以前より濁河の氾濫は続き、元禄四年には河除奉行が実地検分して幕府に申し立てをするが不許可となる。同年村役人八名は江戸に出て新堀の落ち口を切り開く訴えをするが、落ち口が上曽根村に当たるえを以て工事はできない旨となる。元禄八年四月三十日桜井孫兵衛外一名で再度実地検分する。工事許可となり同九年三月二十八日に水抜き工事の準備が始まる。四月二日河除奉行戸倉八郎左衛門、熊谷友右衛門面見分として来甲する。...
View Article☆甲斐濁川改浚工事概要 素堂は関与していない
濁川改浚工事概要さてここで、濁川工事の概要が著されている確かな資料があるのでここに提出する。 ★『元禄年間濁河改修事蹟』 武井左京氏著 《》印筆者『甲斐』第二号 P31~36...
View Article素堂、芭蕉と其角を諭した『続虚栗』 序 不易流行論
素堂の俳諧感 素堂の俳諧感が遺憾なく現れているのが貞享四年(1687)其角の編んだ『続虚栗』の序文である。これは一部の識者も認めている「不易流行」論は、芭蕉に先がけ素堂が唱えたことである。芭蕉没後の門弟たちの「芭蕉俳論」の根底をなす俳論の裏側には素堂の考えが横たわっていたのである。 『続虚栗』の序は本文を参照していただくこととするが、その旨は、...
View Article貞享3年 素堂45才 古池や蛙飛びこむ水のおと 芭蕉
貞享3年 丙寅(1686)素堂45才 ◇ 素堂、『蛙合』仙化編。発句一入集。衆議判に加わる。 雨の蛙聲高になるも哀哉 素堂 古池や蛙飛びこむ水のおと...
View Article「めづらしや」歌仙草稿・素堂書簡より 素堂の妻の死 芭蕉の死
「めづらしや」歌仙草稿・素堂書簡より森川昭氏著 一部加筆素堂書簡 御無事ニ御勤被成候哉其後便も不承候野子儀妻に離申候而当月ハ忌中ニ而引籠罷有候 一、桃青大坂ニて死去其事定而御聞可被候御同前ニ残念ニ存事ニ御座候 嵐雪、桃隣廿五日ニ上り申され候尤ニ奉存候内ゝのミのむしも忌明中候ハゝ其日相したゝめ可申候其内も人の命はかりかたく候へ共待々て忌中もいかゝニ奉存候故也...
View Article素堂と芭蕉『和漢俳諧』八月満尾。支孝編『三日月日記』
素堂と芭蕉『和漢俳諧』八月満尾。支孝編『三日月日記』 (享保十五年刊所集) 納涼の折々いひ捨てたる和漢、月の前にしてみたしむ。 破風口に日かげやよぁる夕すゞみ 芭蕉煮茶蝿避烟 素堂合歓醒馬上 素堂かさなる小田の水落すなり 芭蕉月代見金気 素堂露繁添玉涎 素堂張旭がもの書きなぐる醉の中 芭蕉幢を左右に分るむら竹...
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