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山口素堂 俳諧大辞典 明治書院 昭和三十二年発行

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俳諧大辞典 明治書院 昭和三十二年発行
俳人。山口氏。名は信章。字は子晋、文、公商。通称、勘兵衛(異説もある)。別号、来雪・松子・素仙堂・蓮池翁。又、茶道の号に今日庵・其日庵。覚永十九年(一六四二)五月五日生、享保元年(一七一六)八月十五日没、年七十五。墓、上野谷中感応寺中瑞音院。
 
【閲歴・編著】
甲斐北巨摩那教来石宇山口の産。少時、父と共に甲府に移り、更に二十歳前後の頃江戸に出て、林家について漢学を修めた。寛文中期頃は、しばらく京都に在って、和歌や書道を堂上家に学んだらしい。江戸定住後は、儒学文は算用の才をもって官に仕えたようで、延宝七年三十八歳の折致任して上野不忍池畔に居隠棲した。貞享二・三年、葛飾の阿武に移り、芭蕉その他、蕪門系俳人及び戸田茂睡・人見竹洞のような文人と交わりを深め、隠逸閑雅の境に徹して生を終えた。但し、元禄五年に母を失い(?)同七年親友芭蕉に死別してからは、しばしば旅に出かけ、又、九年には郷里の吏の懇望によって濁河の治水に尽した。俳諧は一般に季吟門と伝えるが、最初の師はなお他にあったものと推測される。
句の初出は伊勢踊(寛文七年)で、その後、延宝年間には『江戸両吟集』『江戸三吟』等に談林作家として活発な動きを見せ、天和年間には虚粟調の俳諧を支持して、蓮を詠じて名高い荷興十唱などの作品があったが、貞享末年以後は沈滞に陥り、元禄十一年頃新風の興行を去来に申し入れた外は、総じて俳諧に対して不即不離の態度を持続するにとどまった。後半生における俳諧は、彼が別に嗜んだ茶道・書道・能楽・漢詩・和歌と同じく、畢竟、品性を培う一法にすぎなかったようである。けれども、その作品は、寡作の憾みこそあれ、人間を反映して高踏清雅な趣があり、両者の間には自然混融が生まれ、素堂の脱俗高邁は芭蕉に、よって摂取され血肉化されたものと考えられる。ことに『虚栗』の前後において、儒学者素堂の左袒による芭蕉の利は多大なものがあったに相違なかろう。かくて素堂は蕉風の歩みに親しく参与する者であり得た。彼が蕪門の客分として重んぜられたのも当然といわねばなるまい。門人に黒露・馬光・子光らがあり、後世、馬光門の素丸によって、素堂を始祖とする葛飾蕉門なる俳系が誇称せられた。著書にはその没後世に出た『とくとくの句合』がある。
外に素堂の名に託した『松の奥』『梅の輿』があるが、共に偽書であろう。家集に、享保六年子光編のものと、後世成美の門人久蔵が編したものがあり、文『俳諧五子稿』のうちにも素堂の句集を収める。追善集には『通天橋』(一周忌)『ふた夜の影』宝暦二年・『摩詞十五夜』(五十周忌)等があった。

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