『甲斐国志』巻之四十三 「庄塚碑」
『甲斐国志』巻之四十三【庄塚碑】
蓬澤村 西高橋ノ堺ニ在リ、一条ト油川庄ノ分界ニ標ヲ立テシ處ナリト云傳フ、元禄中ニ至リ漸々下水ノ道塞カリ、国玉村始メ数村稔穀實ラズ、殆ト沼淵ニ等シカラントス、蓬澤高橋二村最モ甚シ。
桜田殿ノ御代官桜井孫兵新政能興レ功救ニ民患一濁河ヲ浚ヒ剰水ヲ導キ去ラシム。蓋シ大績ナリト云。手代山口勘兵衛(後號ニ素堂一別傳ニ委シ)補助其事頗有勉。以故二村ノ民喜而利之、終ニ生祠ヲ塚上ニ建テ、桜井霊神ト称シ、正月十四日忌日ナレドモ今二月十四日ニ祀之。側ニ山口霊神ト称スル石塔モアリ。後ニ斎藤六左衛門正辰者作二地鎮銘一以勒レ石祠前ニ樹ツ。(銘文ハ附録ニ載ス)
《読み下し》
蓬沢村、西高橋の堺に在り。一条と油川の庄の分界に標(シル)しを立し処なりと云い伝う。元禄中に至り漸々下水の道塞がり、国玉村始め数村稔穀實らず、殆ど沼淵に等しからんとす、蓬澤高橋二村最も甚し。(中略)文昭廟(徳川六代将軍家宜)本州領国たりし時、代官桜井孫兵衛正能は功を興して民の患を救う。濁川を浚い剰水を導き去らしむ。手代の山口官兵衛(後に素堂と号す。別伝に委し)其の事を補助し、頗る勉るを故を以て、二村の民は喜びて之を利(サイワイ)とす。終(ツイ)に生祠を塚上に建つ。桜井霊神と称し正月十四日忌日なれども今は二月十四日にこれを祀る。側(カタハラ)に山口霊神と称する石塔もあり。 後の斎藤六左衛門なる者。地鎮の名を作り、以て石に勒して祠前に建つ。
【参考資料】庄塚 『蓬澤村明細帳』享保十九年(1724)
貳十年己前元禄拾四巳年
西御丸様内領地の節、石原七右衛門様御検地
庄塚 二間三間 一 字庄ノ木 村支配
是ハ山梨群郡油川村の庄塚にて御座候
【参考資料】『裏見寒話」巻之三「漁釣」宝暦二年(1752)刊。
蓬沢(前文略)
湖水の眺望絶景なりしを、桜井孫兵衛と云し宰官、明智博学にして、此の湖水を排水し、濁川へ切落す、今は一村田畑にして、農民業を安んす、農民此の桜井氏を神と仰ぐよし。
『甲斐国志』巻之四十三 「庄塚の碑」
《読み下し》
蓬沢村、西高橋の堺に在り。一条と油川の庄の分界に標し(シルシ)を立し処なりと云い伝う。(中略)文昭廟(徳川六代将軍家宜)本州領国たりし時、代官桜井孫兵衛正能は功を興して民の患を救う。濁川を浚い剰水を導き去らし代官桜井孫兵衛政能は功を興して民の患を救う。濁川を浚い剰水を導き去らしむ。手代の山口官兵衛(後に素堂と号す)其の事を補助し、頗る勉るを故を以て、二村の民は喜びて之を利(サイワイ)とす。終に生祠を塚上に建つ。「桜井霊神」と称し正月十四日忌日なれども今は二月十四日にこれを祀る。側らに「山口霊神」と称する石塔もあり。云々 後の斎藤六左衛門なる者。地鎮の名を作り、以て石に勒して祠前に建つ。(桜井社の建立は享保十八年、裏面に刻してある)とあるが、はるか以前の『裏見寒話』には、素堂の関与は示されてはいない。
『裏見寒話』宝暦二年(1752)
『国志』より六十年前の書(野田成方著)
昔は大なる湖水ありて、村民耕作は為さず、漁師のみ活計をなす。其の頃は蓬沢鮒とて江戸まで聞こえよし。夏秋漁師の舟を借りて出れば、その眺望絶景なりしを、桜井孫兵衛と云し宰臣、明智高才にして、此の湖水を排水し、濁川へ切落し、其の跡田畑となす。農民業を安んす、一村挙げて比の桜井氏を神に祭りて、今以て信仰す。蓬澤湖水の跡とて纔(ワズカ)の池あり。鮒も居れども小魚にして釣る人も無し。
『甲斐叢記』大森快庵著(国志を引用)嘉永元年(1848)
(前文略)
元禄中桜田公の県令桜井政能孫兵衛功役を興め二千四間余の堤を築き濁川を浚い剰水を導き去りて民庶の患を救へり。属吏山口官兵衛(後素堂と号して俳諧を以て聞ゆ)其の事を奉りて力を尽せり。因て堤を山口提又は素堂堤とも云ふ。庶村の民喜びて生祠を塚上に建て、桜井霊神、山口霊神と崇祀れり、云々
★『山梨県水害史』
古老手記(未見、福与氏著)元禄九年の条に三月二十八日、蓬澤村の水貫(抜き)被仰付(中略)五月十六日八つ時分に掘落申候へば、川瀬早河杯の様に水足早く落中候。(中略)桜井孫兵衛政能なる人、此苦難を救わんとして来り、堤を築き、河を浚い、以て湖水を変じて良田に復す。而して此工事に山口官兵衛なるひと補助役として努力し、其の土工の浚成を迅速且つ完全にならしめたりと云ふ。
★「葛飾正統系図」
元禄八年乙酉素堂年五十四、甲陽に帰り父母の墓を拝するの時桜井政能に見ゆ。政能の曰く、此頃甲州の諸河砂石を漂流し其瀬年々に高く、河水溢れ流れ濁河の水殊に甚しく、山梨の中郡に濡滞して其禍を被る事十ケ村に及び、逢沢・西高橋の二村地卑しくして沼淵となり、雨ふる時ハ釜をつりて炊ぎ床をかさねて坐し、禾稼腐敗して収する事十分の二三に及ばず。政能是をうれふる事久し。足下我に助力して此水患を除んやといふ。素堂答へていふ。人ハ是天地の役物なり。可を見てすすむハ元より其分なり。ましてや父母の国なるをや。友人桃青も先に小石川の水道の為に力を尽せり。勉め玉へと言ひて遂に承諾す。政能よろこび江府に至り其事を公庁に達せんとするに、十村の民道におくり涕泣してやまず。政能眷(カエリミ)ていへらく「事ならざる時ハ汝等と永く訣れん。今より官兵衛が指揮をうけてそむく事なかれと。素堂是より復び双刀をさしはさみ又山口官兵衛と号す。幾程なく政能帰り来る。官兵衛また計算に精けれバ夙夜に役をつとめ、高橋より落合に至り堤をきづき、濁河を濬治し笛吹川の下流に注ぎ、明年に至りて悉く成就し、悪水忽ちに流れ通じて沼淵涸れ、稼穡蕃茂し民窮患を免がれ、先に他にうつれるもの皆旧居に復し祖考の墓をまつる。村民是に報ぜんが為に生祠を蓬沢村の南庄塚といふ地に建て、政能を桜井明神と称し、官兵衛を山口霊神と号し、其祭祀今に怠る事なしといえり。
しかして其の事終れば素堂速に葛飾の草庵に帰り宿志を述べて俳諧専門の名をなせり。
【註】こうして『甲斐国志』の記述は伝播していく。