一、生涯
山口素堂、名は信章、字は子晋又公商、通称を勘(官)兵衛(太郎兵衛・松兵衛・佐兵衛・太郎衛等の異説あり、今一般の呼稱に従ふ)素堂は素仙堂の略といふ(連俳睦百韵)。別號として来雪、松子等を稱した。尚来雨の號があったと『連俳睦百韵』はいってゐるが、之は明かでない。彼は、又茶道に於ける庵號として、今日庵、其日庵を稱してゐる。
山口家は、その祖山口勘助良侫(蒲生家の家臣)以来、甲斐国北巨摩郡教来石山口に土着した郷士であった素堂は、その家の長子として寛氷十九年五月五日(一説に正月四日)に生まれたのである。
即ち、芭蕉に先んずる事二年であった。彼は幼名を、『甲斐国誌』に依れば、重五郎といひ、長じて家名市右衛門を継いでゐる。暫くして、家督を弟に譲り、勘兵衛と改名して上京した。山口家は、後年甲府に移住したのであるが、それは恐らく、素堂の少年時代であったらうと思われる。
山口家は、甲府に於いて、魚町西側に本宅を構え、酒造業を営み巨富を擁し(功刀亀内氏蔵…『写本酒之書付』及び『貞享上下府中甲府再見』に依る)、
『甲斐国誌』にも……「家頗る富み時の人山口殿と稱せり」……と記す如く、時人の尊敬を享けたのであった。かゝる正しき家柄と、巨富ある家に、幼少年期を過した素堂は、必ずや、端厳且つおっとりした気風を持って長じた事と思はれる。
とかくして、彼は、江戸に遊学のため出づる事になった。その時期は、勿論明確な事は云へないが、先づ寛文初年廿歳頃と推測される。元来山口家には好学の血が流れ、素堂の末弟の如きも、林家の門人にて、尾州摂津守侯の儒臣であったといふ。
彼も又少々より学を好み、彼が性格として又好学のため、酒造の如き家業を厭つた故もあつたらうが、ともあれ此巨萬の富ある家を惜気なく弟に譲った事は、以て、彼の執着心の乏しさを、察するに足るものである。(略)
こうした記述の中には荻野氏の創造と創作が多く含まれている。
素堂の母の死や濁川工事についても、
素堂の母親の歿年は、『韻塞』所見の素堂の母の喜寿の賀宴が、いつ行はれたかに依つて相違してくる。一般に此賀宴は元禄五年に行はれたとせられてゐる。成程此説にも無理からぬと思はれる節もあるのであって、若し斯く、此宴が元禄五年に挙行せられたとすれば、その歿年を元禄三年とする如き説は當然誤謬である。だが併しながら、かの元禄五年説も絶対的肯定を強ひるには未だその證憑乏しく、そこに此の私説も生じてくる次第である。先づ私論の根拠を示さう。昨年の夏、素堂一家の菩提寺である甲府の尊躰寺を訪れた際、私は光譽清意禅定尼なる一つの墓碑を見出した。
その墓碑の正面には、右の如き戒名の外に、元禄三年午十二月十四日と没年を記し、且つ墓碑の側面には、魚町山口市右衛門尉老母と註してあった。前述の如く市右衛門は山口家の家名である。素堂は早く家督を弟に譲ったのであるから、此市右衛門は素堂自身ではなく或は彼の弟であるかも知れない。併しながら、いづれにせよ、此老母なるものが素堂の母親である事に狂ひは来ないと思ふ。
また、濁川工事については
元禄三年、素堂は母を失ひ(註二参照)、天涯孤独の身となったのであった。(要は既に早く寛文の頃世を去ったらしい)彼が母に仕へて至孝であった事は、諸書の傳へる所であり、彼が後妻を迎へなかった事も、一は母の意にたがはん事を恐れたためであったらしい。母の死に際して、彼が痛惜したのは、もとよりの事であったらうが、それも一面より見れば、彼の閑居を更に徹せしめる事になったと思はれる。
彼は『甲山記行』に見ゆる如く、元禄八年甲府に帰ってゐるが、その翌年、再び甲斐に至って、濁河の治水に力を盡した。此事は、彼の實際的才能の一面を窺い得る事で興味ある事ながら、今縷述を避け、ここにはたゞ、此治水が元禄九年三月二十八日に起工され、五月十六日に竣工を見たといふ。『山梨県水害史』の談を擧ぐるに止めて置く。
と云う様な相当認識不足と誤伝を生む内容になっている。しかしこうした著名の学者が述べた説は否定されることはなく、引用される毎に真実の様に伝わる事となる。