★延宝二年(1674)33才
・「廿回集」北村季吟編
素堂……『廿會集』入集。季吟編。《信章歓迎百韻》(抜粋掲載)
霜月三日江戸より信章のぼりて興行(付句十一 抜粋)
1 いや見せじ富士を見た目にひえ(比叡)の月 季吟
2 世上ハ霜枯こや都草 信章
3 冬牡丹はなハだおしゝはやらせて 湖春
10 下戸ならぬこそ友にはよけれ 季吟
11 打わすれ橋はこえても法ハこえじ 信章
12 駄賃に高る此札の辻 湖春
18 月より申しに夕月の雨 信章
19 舟待のあくびやちとのふるらん 季吟
29 買得たるこそハ宝の市ならめ 信章
36 うつりかは於る和歌の風俗 信章
43 人形はとくたみのきすつくろハれ 季吟
44 吟味はさぞな上留りのふく 湖春
45 をのが自姿うなづきよれる伴部やに 信章
46 やゝともすれば例の手ぐさミ 友部
55 七日迄るやむ心のうら嶋に 季吟
56 涙の海しやわつれなき陰 信章
57 売覚て枕の下やさがすらん 湖春
58 刀があらばやらじまおとこ 可全
59 貧なりと我をみすつるうらめしさ 正立
63 春の夜の月に千金かたじけな 季吟
64 敷物ぞな身円座がたつき 湖春
65 風流は誰わらふぞの東山 正立
66 沖とろりとつゆでたれに 家英
67 汲はこぶ塩らしけなるなりかたち 信章
68 いたゝく桶のそこ忘んぞ思ふ 季吟
69 たつときは高きあしだの羽黒山 可全
77 花に雨はつ神鳴もやミぬとや 正立
78 梢はさけて残る梅が香 湖春
79 春風にかすミの衣ばらりさん 宗英
80 ふる綿なれや去年の白雪 信章
81 山頂連世になし物のつほの内 湖春
82 のむ酒もかなうれへわすれん 季吟
83 まじまじとねられぬ肌のさむしろに 友部
84 ひとりといきを月の夜すがら 宗英
85 四方山のいろいろの事問ひかし 可全
86 来ぬはつハりかもし見捨たか 湖春
87 玉津さも是度のわ後ハかよハさず 信章
88 うらミられたらいかに思ん気や 正立
89 見ていにしもミのきはづき恥かしさ 季吟
93 墨江もはなも一かどわらまほし 可全
94 新宅にての節のふるまひ 信章
95 生壁に正月小袖用捨して 尚光
96 うでまくりたやてんガをうをカく 友部
97 心中のうは気しらるゝいれほくろ 湖春
98 おもふときくも末とぎふやら 宗英
99 本意はありでのうへのくどき事 季吟
100出来ん殿の御代継をまつ 正立
【註】素堂の俳諧論 素堂の地位 北村季吟との関係
延宝二年(1674)三十三才の十一月に上洛して季吟や子息の湖春らと会吟した。(九吟百韻、二十会集)「江戸より信章のぼりて興行」が示すように、「歓迎百韻」であり師弟関係でないことが理解できる。素堂の動向が明確になってきたのは、寛文の早い時期から風流大名内藤風虎江戸藩邸に出入りをし、多くの歌人や俳人との交友が育まれた。その中でも寛文五年(1665)大阪天満宮連歌所宗匠から俳諧の点者に進出した西山宗因からも影響を受けた。宗因はそれまでの貞門俳諧の俳論は古いとして、自由な遊戯的俳風を唱えて「談林俳諧」を開き、翌六年に立机して談林派の開祖となった。素堂が出入りしていた内藤風虎と宗因の結びつきは、寛文二年の風虎の陸奥岩城訪問から同四年江戸訪問と続き、風虎の門人松山玖也を代理として『夜の錦』・『桜川』の編集に宗因を関わらせた。風虎は北村季吟・西山宗因・松江重頼とも接触を持った。重頼は延宝五年(1677)素堂も入集している『六百番発句合』の判者となっている。
延宝二年(1674)宗因の『蚊柱百韻』をめぐって、貞門と談林派との対立抗争が表面化して、俳諧人の注目を浴びる中、翌三年五月風虎の招致を受けて江戸に出た宗因は『宗因歓迎百韻』に参加する。この興行には、素堂や芭蕉(号、桃青)も参加する。素堂も芭蕉も共に貞門俳諧を学び、延宝の初年には宗因の談林風に触れて興味を示し、『宗因歓迎百韻』に一座して傾倒していく。四年、芭蕉は師季吟撰の『続連珠』に入集している。芭蕉は季吟より「埋木」伝授されていて門人であるというが、その後の接触は見えない。
素堂は季吟の俳諧撰集への入集はなく、巷間の「素堂は季吟門」は間違いということになる。素堂を北村季吟の系とする書が多いが、この集により門人ではなく、友人もしくは先輩、後輩の関係であることが分かる。この書以後素堂と季吟の直接交流は資料からは見えない。芭蕉にしても素堂も、元禄二年には江戸に出てきているが以後季吟との交流は少ない。
【註】季吟撰『続連珠』に「信章興行に」と詞書する湖春の附け句が見える。(荻野清氏『元禄名家句集 素堂』)