◎『甲州風土記』
山口素堂の家は巨摩郡教来石山口に土着した郷士の家柄であった。
◎『俳文学大辞典』「素堂の項」
甲斐国北巨摩郡教来石村山口に出生。云々
◎『元禄名家句選』
甲斐国北巨摩郡教来石村山口に於いて出生。云々
以下、素堂の紹介書は数限りなくあるが、その大半は『甲斐国志』の記述影響が強いことが分かる。しかし素堂没後から『甲斐国志』刊行以前の山梨県や他の著作書には素堂が甲斐国の出身とする書は皆無である。
『甲斐国志』「素堂の項」の記述は、濁川工事の責任者とされる時の甲府代官桜井孫兵衛の事蹟を素堂の項を借りて書したもので、その根拠は斎藤正辰之の碑文である。
◎『国志』
其ノ先ハ州(くに)ノ教来石村字山口ニ家ス。因(より)氏ト為ス。後ニ居を府中魚町ニ移ス。家頗ル富ミ時人山口殿ト称ス。(中略)江戸市中東叡山麓葛飾安宅草庵。
◎『連俳睦百韻』「序文」寺町百庵著
抑々素堂の鼻祖を尋ぬるに、河毛(蒲生)氏郷の家臣 山口勘助良佞後に佞翁と呼ぶ 町屋に下る。山口素仙堂、太郎兵衛、信章、俳名来雪、其の後素仙堂の仙の字を省き素堂と呼ぶ。云々
◎『人見竹洞全集』の元禄六年(1693)素堂五十二才の項に次のように記されている。
癸酉季夏初十日二三君乗舟泛浅草川入。
川東之小港訪素堂隠屈竹径門深荷花池凉。
松風繞圃瓜満畦最長広外之趣也。
◎『地子屋敷帳』元禄九年(1696)の九冊目、深川の条
四百三十三坪(元禄六年に購入)
この土地は元禄十五年には四百二十九坪と変更されている。
◎『本所深川抱屋敷寄帳』宝永元年(1704)
素堂の抱屋敷として
深川六間掘町続、伊那半左衛門御代官所、町人素堂所持仕早老地面四百二十九坪之抱屋敷云々
この紹介文書は森川昭氏の手によるものである。
素堂は葛飾の庵に暮らし、細々と生活していたとされる書もあるが、素堂の家敷地は広大なもので抱屋敷も持っていたのである。
特に深川六間堀に所持することになった抱屋敷は伊那半左衛門代官所管轄の地である。
◎『国志』
其ノ先ハ州(くに)ノ教来石村字山口ニ家ス。因(より)氏ト為ス。後ニ居を府中魚町ニ移ス。家頗ル富ミ時人山口殿ト称ス。(中略)江戸市中東叡山麓葛飾安宅草庵。
◎『連俳睦百韻』「序文」寺町百庵著
抑々素堂の鼻祖を尋ぬるに、河毛(蒲生)氏郷の家臣 山口勘助良佞後に佞翁と呼ぶ 町屋に下る。山口素仙堂、太郎兵衛、信章、俳名来雪、其の後素仙堂の仙の字を省き素堂と呼ぶ。云々
素堂の幼少から致任するまでの間の住所と住居の変遷は確かな資料が少ない。『国志』の言を全面的に信用したい所であるが、当時山口家が巨摩郡教来石村字山口に所在したかは疑わしいもので、現在の国道二十号線沿いの旧甲州街道(甲府から諏訪)は段丘の上を通過していて、山口集落の出現も徳川時代に入ってからの口留番所を設けて久しく経過してからの集落であり、徳川以前は国境の地としてまた常に戦争の狭間として人々の住める場所ではなかった。当然素堂の家(祖先を含む)が存在した可能性は少ない。現在の上教来石村字山口集落の段丘上に「海道」の地名が遺り、付近の墓所の墓石刻印も素堂没以後の年代の物が多く、当時『国志』素道の項の記述者が、山口素堂の氏「山口」の出処を甲斐に求めた結果、教来石村山口か該当する地名がなく困惑の結果の所産ではなかろうか。
編纂約百七十五年前の素堂の出生と祖先の住居についての記述は、歴史資料に基づくものではなく、著者の推説と創作記述と断定しても間違いない。『国志』編纂に於いての上教来石村の『書上』にも素堂の記述はなく江戸の素堂の事蹟記述は『国志」編纂者の手による可能性も残されている。
資料の入手困難の中での『国志』の編纂の努力は並大抵のものではない。しかし素道の項については史実とかけ離れた記述である。