『俳聖芭蕉』野田要吉氏(別天楼)著
昭和19年刊。理想社発行
延宝時代桃青の連句
宗鑑守武等の興した俳譜は俳諧連歌のことで、滑稽體の連歌といふ意味である。俳諧といへば、その初頭の長句、即十七句の発句と、之に続く短句、十四字の脇句より以下の附合全體を総括した名称であるが、近来は俳諧のことを一般に連句と称えているから、私も連句と呼ぶことにする。
桃青時代の連句で今日傳っている最古のものは、延宝四年(二十三歳)の作『江戸両吟集』である。江戸両吟集は桃青がその俳友山口信章(素堂)と二人で、菅神奉納の為に試みた二百韻のことである。後、延享四年に『梅の牛』と改題して前半は再版せられたものが、今日行はれている。
江戸両吟集の作者の一人山口信章は甲斐の国巨摩郡教来石村字山口の産で、名は信章、別に来雪と號し、其日庵とも今日庵とも称した。又素仙堂と號したが、後には専ら素堂、といふ俳號を用ひた。素堂の家は、元来富裕であったが、彼は江戸に遊学して林春斎に経学を修め、後京都に上りて俳諧を北村季吟に、書道を持明院家に、和歌を清水谷家に学び、又茶道香道にも勝れ、琵琶、謡曲等の諸芸に通じていた。一たび郷里に帰ったが、遂に家を弟に譲り江戸に出でゝ更に儒学を修め、諸藩の間に講学した。
後居を葛飾に移して隠棲した。たまたま桃青の芭蕉庵に近く、元より同門の好みもありて二人の交遊は年と共に深まった。素堂が葛飾に移り住んだのは天和元年と『葛飾蕉門分脈系図』に云っているが、延宝四年に『江戸両吟集』が出ているのを見ると、二人の交情は桃青が江戸に下った後日ならずして結ばれたものであろう。素堂は常時既に談林の影響を受けていた。そしてそれを桃青に及ぼしたものであろう。素堂は桃青より長ずる事一歳、漢学の造詣深かりし故、桃青も素堂を門人扱ひにせす、素堂先生と呼んで推伏していたほどであった。かくて二人は俳諧革新の意気相投合して、一時は談林の感化を受けしが、遂に天和の新風を興し、蕉風樹立の基礎を築いたのであった。
素堂は嘗て郷里に於て、代官桜井政能の嘱を受けて蓬沢治水の業に従ひ、克く土民の苦患を除きしに依り、蓬澤に祠を建てゝ山口霊神と祭られたことは『葛飾蕉門分脈系図』に記すところである。
桃青が小石川水道工事に従事した頃には、既に素堂との交情は深かったのだから、桃青の治水の技術方面には、素堂の後援があったのではあるまいか。郷里に於て治水の功を樹てた功績を慕はれて、土民から山口霊神として祀られたほどの素堂が、桃青の水道工事に何程かの援助を與へたであろうことは無稽な推察ではあるまい。
吉田博士の地名辞書引く所の『産業事蹟』には、
甲州笛吹川の畔河流壅塞して平常水患を被るもの九村、蓬澤西高橋の一村境甚し。元禄中田園変じて池沼となり、多く鰤魚を産するに至る。代官櫻井孫兵衛政能見庶の疾苦を察し、濬治の計を幕府に以聞す。元禄九年政能新に渠道を通じ土堤を築くこと二千百五十間、其の広さ四五間より六七間に至る。
以て濁川を導く。淳水一旦に排泄して田園悉く舊に復す。府中魚町の富民山口官兵衛信章(素堂)政能を輔けて治河の功あり、村人之を徳とし、生祠を蓬沢南庄塚に建てゝ、櫻井山口二人を祭拝したりとぞ。……
とある。これに依れば素堂治河の功は芭蕉没後のことのようである。されど『葛飾蕉門分脈系図』には
始甲斐国巨摩郡教来石山口に住し山口市右衛門と号し頗る家富り。櫻井孫兵衛政能に廃し蓬澤の水利に功有、後東都東叡山下に寓居し儒を専門とし詩歌を事とし、云々。
と見えてみる。これに依れば東都に出る前に郷里に於て治水の功ありしものゝ如くである。私は姑くこの後説に従って桃青との関係を述べた。
素堂は享保元年八月十五日江戸に於て享年七十五で逝去した。その俳系は葛飾風として傳へられ、素堂を其日庵一世とし長谷川馬光、溝口素丸、加藤野逸等相継ぎ、門葉大いに栄えた。彼の一茶は、初め素丸の門に学んだのであった。
『江戸両吟集』の二百韵は、今日傳っている桃青の連句としては最古のものであるが、この二百韵には既に談林の感化が認められるのである。信章の素堂が談林かぶれのしてゐたことは前にも挙げたが、桃青の親友の一人小澤卜尺もまた談林に足を入れていた。云々