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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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☆甲斐濁川改浚工事概要 素堂は関与していない

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  • 濁川改浚工事概要
さてここで、濁川工事の概要が著されている確かな資料があるのでここに提出する。
 
★『元禄年間濁河改修事蹟』 武井左京氏著 《》印筆者
『甲斐』第二号 P3136
 濁河は、甲斐国志に「高倉川・藤川・立沼川・深町川等城屋町の南板垣村の境にて相会する処に水門あり、是より下を濁河と名つく。東南へ湾曲して板垣界より中郡筋の里吉・國玉両村の間を南流す」とあり。改修以前は現今の玉諸村の内里吉・國玉の界を南流し、同村の内蓬澤を経て住吉村の内増坪の北横手堤(信玄堤)に抵り、一曲して東に向ひ玉諸村の南にて笛吹川(明治四十年の大水害にて改修せられ今は平等川となれり)に合流したるものなりしが、延宝年度頻年の大出水にて笛吹川瀬高になり、川尻甕塞して平常水患を被るもの沿岸村九ケ村即ち現在の里垣村の内坂折・板垣、王諸村の内里吉・国王・西高橋・蓬澤・七澤・上阿原、住吉村の内畔村にして就中西高橋・遅滞、最も甚敷田園過半沼地となり鮒魚多く生産す。其頃物産の一なりしと云ふが如き状態に陥りたるを以て排水の為常時の合流地点より約十四五町の下流西浦川(住吉村の内)附近に於て濁河を笛吹川に合流せしむべく計画したるに、対岸東浦川村(富士見村の内)に於て故障を申立たるを以て遂に工事に着手すること能はさりしを以て、延宝三年(二百五十六年前)《1675》正月西高橋、遅滞村の名主長百姓連書し、延宝二年《1674》八月度々出水にて田畑は勿論住宅迄浸水し、居住困難に陥りたるを以て何れにか移転を被命度且つ東油川村の意向を取糺したるに、既定計画の合流口を多少の変更を為すに於ては異議なき旨に付、同春中に工事を遂行せられ度旨奉行所に訴へ出たり。
 其の後十一年貞亨年丙寅年(二百四十五年前)《1686》六月十二日出水浸水床上四寸に至り畑作物皆無となれり。
同四丁卯年《1687》八月二十七日出水あり。
越へて元禄元戊辰年《1688》七月二十日・二十一日に亘り大出水家屋内浸水五六尺に達し溺死者を出し、田畑共作物皆無となり示後八月十日及九月の両度出水あり。
 同二年巳年《1689》四月九日・五月二十九日・六月十八日・十九日同二十四日の数度出水あり。
 同《元禄二年》七月六・七日に旦る大出水は元禄元年七月の
出水より三寸の増水にて浸水十日の久しきに旦り。田畑の作物皆無は勿論床上浸水一尺三寸に至りたるを以て沿河九ケ村の名主長百姓連署を以て、「本年七月の出水は未曾有の出水にて田畑は勿論、西高橋・蓬澤の両村は住家の軒端迄浸水したるが如き惨状を呈したるを以て、先年目論見の排水工事に付ては対岸東浦川村に於て合流拠を少々下げらるゝに於ては支障なき旨に付変更の上工事遂行方奉行所に訴へたり。
 翌三庚牛年《1690》六月六日及九月六、七日数度の出水ありたるを以て十月中前年八月同様沿河九ケ村名主長百姓より前願趣旨を継承し「排水口に落合村(山城村の内)用水先年落来りし。蛭澤堰落口又は荒川へなり何れへなり共決定、工事遂行せられ度旨」前同断訴へ出たり。
 同四辛来年《元禄四年 1691》二月三日川除奉行臨検実地に就き排水路の測量をなしたり、
 同四月中「水路工事の義、着手に全らず荏再経過せられ数度の出水にて村民困難に陥りたるを以て工事遂行の件、轄地に於て難決幕府に上議せらるゝ」とせば村役人幕府に出頭すべきに付添翰を下付せられ度申立。
 同《元禄四年》五月中「当春、川除奉行賞地臨検の結果落合村(山城村の内)用水落口に九ケ村出願の排水路落口に見立られ右は何れも故障を生ぜざものに付右目論見の通工事遂行方」訴の上、
 同月十一日西甘高橋・蓬渾村の村役人八名江戸に出立排水路堀塞之義を幕府に申立たるも右落口は上曾根村の対岸に当れるを以て同村の意響を慮り差控られ詮議の運に至らざりしに、
 同年《元禄四年》六月四日又々出水あり。同間八月引績き落合村蛭澤堰落口に堀繋すべく目論見たる排水工事遂行に至らざるを以て西高橋、蓬洋画村は排水の為困難を極め居住に難堪、他に移轄の己を行ざる場合に立至りたるに付荒川に排水せられ度旨訴べたり。
 翌五壬申年《1692》は五月三、四日及七月二十一日両度、
 同六突酉年《1693》は四月二十五日、七月四・五日、九月十二一日、十八日数度の出水を重ね、
 翌七甲戊年《1694》富時梗田殿甲府宰相松平綱豊(後の徳川家宣文明公)の領地たりしとき櫻井政能、代官として任にむや同年も五月閏五月十九日、七月三日、八月二日数度の出水あり西高橋、蓬澤は最も卑地なるを以て田畑多く沼淵となり(此時に富り村民魚を捕へ四方に鬻き食に換へ蓬澤の鮒魚本州の名産たりし)降雨毎に釜を吊し床を重ね稲田は腐敗し収穫毎に十の二、三に及ばず前に水中に没したる者数十九戸、既に善光寺〈里垣村の内)の山下に移輯し、残余の者も居住に堪へさらむとするに至り、政能憂慮し屡々上聞に達したるも聴されず、
 同八乙亥年〈1695》四月三十日蛮地踏査の上意を決し之を幕府の老臣に訴へ遂に許を得、
 同九丙千年《1696》(二百三十五年前)三月二十八日濁川の流域を西高橋より落合村に至り笛吹川に合流変更するの計画を致表し、四月二日より川除奉行をして蛮地を調査せしめ増坪より落合迄延長二千六間(甲斐団志には二千一百有余聞とあり)広き四、五間より六、七間外に附工事たる蛭澤堰附替千四百五十七間にして千二百を請負に付し其の他は関係村に夫役を賦課し、四月十五日より工事に着手し西浦川村に於て民家拾軒の移韓を要し、五月十六日悉皆竣工、其の夜の中に排水を了し田圃悉く舊に復し沼淵枯れ稼穡蕃茂し民窮患を免かるヽに至れり。
村民其の洪恩を感載し政能の生祀を建て(蓬澤庄塚)之を祀る。爾来祭祀を僻ることなく元文三戊午年《1738》(百九十三年前)孟夏従子斎藤六左衛門正辰祇役して此に至り石を司に樹て地鎮の銘を勒せり《地鎮銘略》。

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