Quantcast
Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

「めづらしや」歌仙草稿・素堂書簡より 素堂の妻の死 芭蕉の死

$
0
0
「めづらしや」歌仙草稿・素堂書簡より
森川昭氏著 一部加筆
素堂書簡
 
御無事ニ御勤被成候哉其後便も不承候野子儀妻に
離申候而当月ハ忌中ニ而引籠罷有候
 一、
桃青大坂ニて死去其事定而御聞可被候
御同前ニ残念ニ存事ニ御座候 嵐雪、桃隣廿五日ニ上り申され候
尤ニ奉存候内ゝのミのむしも忌明中候ハゝ其日相したゝめ可申候
其内も人の命はかりかたく候へ共待々て忌中もいかゝニ奉存候故也
 一、
日外翁と両吟ノ漢和之巻此方ニハひかへも無御座候
尤不宜物翁もわれらも人に見せ可申心は無御候
キ然共それ成共見申候而替度心に御座候
其上所々直し申候ハバ見られ申候儀も可有と存ル心も御座候間
御封し被成いつそ此方へ御越可被下候
一、 
例ノ年わすれ去年ハ嵐蘭ヲかきことしハ翁ヲかき申候而明年又たそや
十月廿六日冬至十一月上旬ニて
元来冬至前ノ年わすれ素堂ゟはじまると名にたち申候へ共
手前の趣何角ニて冬至前ニハ仕かたく候
其内御左右可申上候ヘハ奉待候
 
貴様  左太夫宗也 我等たな之衆ノ内ニて一両人
専吟、杉風何とそと奉存候其角ハ大坂、嵐雪・桃隣も
其内ニハ帰り申され候へく候へ共我らたれも存寄無御座候
 
曽良雅丈       素堂
 
右は高山市の長瀬茂八郎氏御所蔵の貼交屏風中の一点である。一応右のように読んだが、私には難読の点が多かったので、御教示頂ければ幸いである。
本書簡は芭蕉病歿直後親友素堂によって書かれた点に注目されるのであるが、その心情はむしろ淡々と控え目に述べられて居る、とは言うものの、
「御同前に残念ニ存事ニ御座候」
と言い、
「去年ハ嵐蘭ヲかきことしハ翁ヲかき申候而明年又たそや」
というところに、親友を失った身辺の寂寥がにじみ出ている。
この前後の門人達の動静についても新知見はなく、嵐雪・桃隣二十五日西上の事も、「枯尾花』などに知られることではあるが、それを傍証する第一等の資料とすることはできよう。
冒頭近くにいう「野子儀妻に離申候而… … 」は素堂伝記上注目すべき事実であろう。素堂の妻については、荻野清氏「山口素堂の研究」付録の年譜寛文十三年条に、甲府尊躰寺に、此の年六月七日歿の江岸詠月禅尼なる墓碑を存す。あるいは彼の妻か。(『芭蕉論考』二五一頁)
とされ、小高敏郎氏はこれを踏襲され、付して、「素堂は早くから孤閨をまもって再び娶らなかったという」と言われ、そこから素堂の人物の一面を評価された(明治書院俳句講座俳人評伝篇上三〇九頁)。ところが、本書簡によれば、素堂の妻は元禄七年、おそらくは九月に歿したものとも考えられ、上記諸説は再考を要するかも知れない。
「日比翁と両吟ノ漢和之巻… … 」は『芭蕉庵三日月日記』をさすものと考えられる。同書は、呂丸が芭蕉から乞いうけた草稿本が鶴岡の平田家に伝来するが、それと別の本がこの頃曽良の手許にあり、素堂はそれを補訂する意志があったのである。
因みに、元禄七年の冬至は、藤木三郎氏『芭蕉時代の暦」によれば十一月五日で、本書簡にいう十一月上旬に符合する。猶、本書簡が貼られている屏風には、他にも、木因書状、嵐雪書状、支考付合書留、蕪村書状(五月十四日、春泥宛)、下総守宛小堀遠州書状、天祐紹杲・松平君山の漢詩など数々の筆蹟が合装されている。
貴重な資料の閲覧・公開を許された長瀬茂八郎氏、及びあっせんの労をとられかつ同行して種々御教示を賜った北条秀雄・小瀬の両先生に心からお礼申あげます。
 
森川先生により、これまでの素堂に対する視点が大きく変わることになってきている。曾良宛の文書からは、素堂の妻の死年次が確かになった。また素堂の妻の墓について荻野先生の調査結果は明確に間違いである。それはこの墓所は複数の家の墓石があり、素堂家や甲斐諸書が伝える山口屋とは何ら関係が見えない墓である。また荻野先生の『山口素堂の研究 上』には大きな誤りが見える。「出生」・「母の没年」・「妻の没年」・「親族」など資料を持たない推説が素堂生涯を大きく誤らせた要因ともなっている。確かな資料が表れた場合は、勇気をもって訂正していくことが求められるのではないか。間違いを継承する事は賢明ではない。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>