元禄時代以前より濁河の氾濫は続き、元禄四年には河除奉行が実地検分して幕府に申し立てをするが不許可となる。同年村役人八名は江戸に出て新堀の落ち口を切り開く訴えをするが、落ち口が上曽根村に当たるえを以て工事はできない旨となる。元禄八年四月三十日桜井孫兵衛外一名で再度実地検分する。工事許可となり同九年三月二十八日に水抜き工事の準備が始まる。四月二日河除奉行戸倉八郎左衛門、熊谷友右衛門面見分として来甲する。千八百間の内千二百間は入札請負として、同五日堀始めて五月十六日水落ちとなる。
このようにして工事は短期間で終了する。『甲斐国志』の云うような孫兵衛は兎も角素堂の関与など無い事が分かる。『甲斐国歴代譜』には、
元禄九年三月、中郡蓬澤溜井、掘抜被仰付、五月成就也。と簡単に記されている。
工事にかかった経費は三百両余である。
桜井孫兵衛は元禄七年から十四年まで甲府代官を務めた後大阪に赴任している。
斉藤正辰は元禄十六年(1703)に養子先斉藤家の遺跡を継ぎ御次番となり、宝永五年(1708)桐門番に転じ、同六年常憲院殿(綱吉)薨御により務めを許され小普請となり、享保十二年(1728)御勘定に列す。十四年(1730)御代官に副て御料所を検し、あるいは甲斐国に赴き、堤河除普請の事を務む。元文四年(1739・碑文を著した次の年)、その務めに応ぜざることあるにより、小普請に貶して(格下げ)出仕をとどめられ十一月に許される。明和二年(1765)に致任して翌三年に没している。《『寛政重修諸家譜』》
正辰は享保十八年と元文三年に甲斐入りしている。現存する石祠「桜井社」の建立年月日は享保十八年である。 私見であるが享保十八年に甲斐入りした正辰は、濁川の見分ををした折に、孫兵衛の事蹟を示す石碑を蓬澤と西高橋の名主に申しつけて、石祠もこの時に両村に建立を申しつけたのである。石祠を生祠とする説が甲斐では確定しているようであるが、一考を要する問題である。 素堂の濁河改浚工事への関与を示す歴史資料は『甲斐国志』のみで、その基の資料は未見である。
素堂死去した後、『甲斐国志』までの期間に素堂及び山梨県の歴史資料には、素堂と甲斐の関係や濁河工事関与を示す書は無い。
※三、享保十二年(1732)『甲州囃』村上某著
◎四、元文三年(1738)『孫兵衛地鎮碑文』正辰著
◎五、宝暦元年(1751)『俳諧家譜』丈石著
※六、宝暦二年(1752)『裏見寒話』野田成方著
◎七、明和二年(1765)『摩訶十五夜』山口黒露著
※八、明和六年(1769)『みおつくし』久住他著
◎九、明和七年(1770)『俳諧家譜拾遺集』春明著
◎十、安永八年(1779)『連俳睦百韻』佐々木来雪著
※十一、天明三年(1789)『甲斐名勝志』萩原元克著 十二、文化十三年(1816)『甲斐国志』松平定信編