武田武将 飯富兵部少輔虎昌
飯富兵部少輔虎昌『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著 臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆 飯富氏は甲斐源氏の一門逸見氏の別れの末裔で、虎昌檀信虎、信玄と二代にわたって仕えた。...
View Article武田武将 秋山伯耆守信友
秋山伯耆守信友『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著 臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆 信友の祖は信義の次男加賀美次郎遠光の長男太郎光朝が、秋山村(甲西町)に拠って秋山氏を称したもので、要害城(拠城)は地続きの中野村(櫛形町)にあった。 光朝は平家に厚遇されて、平重盛の娘を妻にめとったばかりに、のちに源頼朝に冷遇され、不運な生涯を送る羽目に追い込まれた。...
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甲府市土屋華章製作所(土屋穣社長)甲府水晶業界の草分け『甲陽重家録』山寺和夫氏著 昭和49年刊 一部加筆 水晶磨き、初代宗助 甲府市湯村一丁目十三番十一号、土屋華章製作所(土屋穣社長《現隆氏》・水晶美術彫刻置物製造・輸出) は、文政-天保年間...
View Article芭蕉 三木露風
芭蕉 三木露風 芭蕉の象徴は内に在って醸酵して居る。此点は僕をして想はず渇仰の念を起さすのだ。初期の作品にはまだまだ斯ういふところは見えぬ。ただ注意を牽くのは、匠工する力が案外なく、徹頭徹尾、行情の心を押進めてゐる点である。後にあゝいふ最善の詩境にまで往ったのは、此匠工(ウワーク)する力を捨てて抒情の力に依ったためである。芭蕉はそこから、生命の秘想を奪ひ取ったのである。...
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素堂と芭蕉の「蓑虫」の遣り取り> 素堂、芭蕉「蓑虫」の遣り取り 芭蕉……帰庵する。 素堂…… 秋、芭蕉の帰庵の月、素堂亭に招く。 此月、予が園にともなひけるに、 又竹の小枝にさがりけるを みの虫にふたゝびあひぬ何の日ぞ 素堂 しばらくして芭蕉の方より 草の戸ぼそに住みわびて秋風のかなしげなる夕暮、 友達のかたへ言ひ遣はし侍る みの虫の音を聞きに来よ草の庵 芭蕉 素堂、「蓑虫説」...
View Article芭蕉、『野ざらし紀行』素堂、『野ざらし讃唱 』
芭蕉、『野ざらし紀行』素堂、『野ざらし讃唱』 千里に旅立てみち粮をつゝまず、三更月下無何に入と云けむ、むかしの人の 杖にすがりて、貞享きのえね秋八月江上の破屋を出るほど、風のこゑそゞろ寒げなり。 野ざらしをこゞろに風のしむみかな 秋十とせ却てゑとをさす故郷關こゆる日は終日雨降て、山はみな雲にかくれたり。霧しぐれふじをみぬ日...
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芭蕉、『野ざらし紀行』 千里に旅立てみち粮をつゝまず、三更月下無何に入と云けむ、むかしの人の 杖にすがりて、貞享きのえね秋八月江上の破屋を出るほど、風のこゑそゞろ寒げなり。 野ざらしをこゞろに風のしむみかな 秋十とせ却てゑとをさす故郷關こゆる日は終日雨降て、山はみな雲にかくれたり。霧しぐれふじをみぬ日...
View Article素堂、『野ざらし讃唱 』
素堂、『野ざらし讃唱』素堂跋山素堂 こがねは人の求めなれど、求むれハ心静ならず。色は人のこのむ物から、このめば身をあやまつ。たゞ、心の友とかたりなぐさむよりたのしきハなし。こゝに隠士あり、其名を芭蕉とよぶ。はせをはをのれをしるの友にして、十暑市中に風月をかたり、三霜江上の幽居を訪ふ。いにし秋のころ、ふるさとのふるきをたづねんと、草庵を出ぬ。したしきかぎりハ、これを送り猶葎をとふ人もありけり。...
View Article横田備中守高松(よこたびっちゆうのかみたかとし)
横田備中守高松(よこたびっちゆうのかみたかとし)『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著 臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆 横田備中守高松は近江佐々本の一流、次郎兵衛義網が初めて横田を称し、その五世の孫であるという。‐...
View Article武田24将 多田淡路守満頼(ただあわじのかみみつより)
武田24将 多田淡路守満頼(ただあわじのかみみつより)『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著 臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆 多田三八は美濃牢人である。 牢人の字が使われるのは室町時代以後で、それ以前は浪人と当てられたが、仕官の口を求め他国を流浪する侍のことである。...
View Article武田24将 土屋右衛門尉昌次
武田24将 土屋右衛門尉昌次 『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著 臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆 昌次(続)は武田の老臣金丸筑前守虎義の次男で、はじめ平八郎と言った。天文十四年(1545)の生まれなので、信玄より二十四ばかり年少である。...
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武田24将 小幡豊後守昌盛 『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著 臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆 又兵衛昌盛は天文三年(1534)生まれで、小畠山城四十四の時の子であった。 天文十八年(1547)、十六歳で初陣をかざり、父山城に及びもつかぬとはいえ、敵将丸山筑前を仕留め、首に筑前の軍配を添えて信玄の首実検に供して賞め言葉をもらうなど、十七の感状をもらっている。...
View Article武田24将 真田源太左衛門信綱
武田24将 真田源太左衛門信綱 『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著 臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆 信綱は天文六年(1537)幸隆の長子として生まれた。母は河原隆正の妹である。父と共に武田信玄に仕えた。妻は北信濃の井上氏とも、高梨政頼の妹ともいわれ、はっきりしない。 早くから父に従って転戦、永禄四年(1561)九月の川中島合戦にも父と共に出陣した。...
View Article武田24将 小山田兵衛尉信茂
武田24将 小山田兵衛尉信茂 『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著 臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆 信茂は出羽守信有の嫡男として、天文七年(1538)に生まれた。母は信虎の妹であるから信玄とは従兄弟である。...
View Articleその他の武田二十四将
その他の武田二十四将 『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著 臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆 その他画像に描かれた二十四将には、栗原信盛、曾彌昌世、初鹿野忠次、真田昌幸、小幡信貞(定)、小原広勝などがいる。...
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