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武田武将 秋山伯耆守信友

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秋山伯耆守信友

『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著 
臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆
 
信友の祖は信義の次男加賀美次郎遠光の長男太郎光朝が、秋山村(甲西町)に拠って秋山氏を称したもので、要害城(拠城)は地続きの中野村(櫛形町)にあった。
 光朝は平家に厚遇されて、平重盛の娘を妻にめとったばかりに、のちに源頼朝に冷遇され、不運な生涯を送る羽目に追い込まれた。            
 光朝に三人の子があり、三男の常葉二郎光季の末裔が伯者守信友である。
 父は新左衛門信任。伯耆守信友は晴親、晴近とも言われたが、信玄に見出され重用された。
 大永七年(1527)生まれと伝えられるので、信玄より七歳ばかり年少であった。
 天文十六年(1547)の二月、馬場・小畠と共に伊那に攻め入り、頭角をあらわし、その年二十一歳の若さで、伊那郡代となった。
 永禄五年(1562)六月、勝頼が高遠城代に決まり信友は飯田に城替えになった。
 永禄十一年(1568)六月には、その前年、信長の子城之介(信忠)と、信玄の娘で七歳になった松姫との婚約話が成立したので、祝言の品を届けに秋山が信玄の名代として岐阜へ赴いた。信長の喜びようは異常なほどで、自ら信友の盃に酌をしたり、梅若太夫の能を特別に演じさせたうえに、長良川で鵜飼の実演を披露してもてなすなど、下にもおかぬ歓待ぶりであった。信友も気を良くして、信長に二心のないことを信玄に報告し、大任を果して面目をほどこすのだが、その年十二月、家康相手の遠州攻略では深追いし過ぎて逆襲され、命からがら高遠へ逃げ帰るという失態をやった。
 しかし中一年おいた十三年には三百五十余騎を率いて奥三河へ討って出て、山家三方衆の作手の奥平、菅沼、長篠の菅沼らを攻略、投降させて武名をあげ、先年の雪辱を果した。
 信友には子供がなく、土屋右衛門尉昌次の弟源蔵を養子にもらった。左衛門尉昌義と称させていたが、元亀二年(1571)、二十九歳の若さで病死してしまった。
 不吉の影はそのあたりから兆しはじめていたようである。翌三年になって、信玄から美濃の国遠山の大円寺の僧希庵和尚を消せ、という指令を受けた。身延山の移転問題にからんで入甲をうながしたが、希庵が従わなかったからといわれている。これに異説もあるが、信友は部下の素波(しのびの者)、伊那の松沢源五郎、小田切与助、林甚助の三人に希庵暗殺を命じ、十一月二十六日に首尾よく果して三人は戻って来たが、三人共発狂したり落馬したりなどで、次々に死んでいった。
 信友が信玄の命で岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)の遠山景任を攻めたのは、元亀元年。(1570)で信友は高遠城主であった。
 遠山は織田信長に救援を求めた。景任の夫人は信長の叔母のおつやの方である。
 信長は明智光秀を救援に向かわせた。秋山信友は岩村城を落とすことができず、高遠へ引きあげた。
 元亀三年(1572)、景任が病死したので、信長は六男の御坊丸(勝長)を養子として家督を相続させ、おつやの方が城主となった。これを知った信玄は再び信友に東美濃の攻略を命じた。岩村城の織田掃部は信友との合戦をかわすため、おつやの方と信友を結びつけ、御坊丸の養育を条件に和睦を申し入れた。
 前年、養子を失ったばかりの信友は承座元寺以下の将卒三百五十騎と共に岩村城に入った。
 御坊丸は人質として甲府へ送られた。信玄は養子にするつもりであったという。
 天正元年(1573)信長は二万の兵を率いて岩村城を攻めたが、勝敗はつかなかった。同三年(1575)五月、長篠の合戦で勝頼が敗走すると、信恵が攻めた。
 信恵と松姫の婚約には、祝言の品を届けるために信玄の名代として岐阜へ行った信友だが、立場は逆転して信忠に攻め落とされる羽目になり、信友は信長の命で逆さ傑にされ、おつやの方ものちに信長の手で斬首された。
 平気盛の娘を妻に選んだばかりに不遇の運命を強いられた先祖の元朝と、奇しくも似通った末路をたどることになったの事は皮肉としかいいようがない。

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