Quantcast
Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

武田24将 土屋右衛門尉昌次

$
0
0


イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

武田24将 土屋右衛門尉昌次

 『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著 
臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆
 
昌次(続)は武田の老臣金丸筑前守虎義の次男で、はじめ平八郎と言った。天文十四年(1545)の生まれなので、信玄より二十四ばかり年少である。
 虎義は子沢山で男の子が七人あった。長男の金丸平三郎が二十一歳の時、信玄の弟の信廉(逍遥軒)の被官落合彦助に殺害されたため昌次が嗣子となったもので、信玄の奥近習として仕えた。
 永禄四年(1561)、十七歳で信玄に従って川中島合戦に出陣、こまめに立ち働いたのが認められ、土屋と改姓するよう命じられた。右衛門尉昌次となるのは、ずっとのちの永禄十三年(1570)になってからだが、侍大将に抜擢されたのは二十二歳という若さであった。
 その前年の十二月、小幡又兵衛昌盛が信玄の命に背いて海津城詰めを断り、多分切腹ものであろうと一人決めして、菩
提寺である妙音寺にさっさと行ってしまった。小幡の気質を知っている昌次は、後を追い、思いとどまらせようとした。
勝頼も心配して側近の阿部を走らせるなどして、昌次と勝頼のとりなしで叔父の小畠光盛を行かせることで納まったが、昌次が気を利かさなければ又兵衛は切腹して果てるところであった。
 昌次の旗印は黒地に白の鳥居で、百騎を預けられた。
 元亀三年(1572)十二月の三方ケ原の合戦では、家康の家臣鳥井四郎右衛門と一騎討ちの勝負になったが、鳥井は豪の者として知られているだけに、一刀の下に昌次の甲(かぶと)を打ち割った。幸い明珍の星甲であったので、甲は割れたが頭はかすり傷一つなく、組打ちとなり、結局昌次が鳥井の首を討ち取った。
 この合戦は敵味方入れ乱れての激戦になり、双方手助けすることの出来ぬ最中、豪の者を昌次一人の手で仕留めたとあって、武名は一段と上がった。
 その四ヵ月後に信玄の陣没という由々しい事態を迎え、昌次は悲嘆の余り追い腹を切ろうとした。が、高坂弾正と馬場美濃守に、合戦があるまで生きよ、と諌められて思いとどまった。
 中一年おいた天正三年(1575)五月の長篠の合戦では初めから死ぬ覚悟であったので、三重の柵を張り鉄砲を撃ちかけてくるのをものともせず、一条・穴山隊と力を併せて織田軍の佐久間信盛の守備する柵を二重迄打ち破り、三の柵本に肉迫した。
 ここは滝川一益隊が守っていたが、昌次が名乗りをあげたが応答がない。では「俺が破る」と突進すると、いきなり鉄砲を浴びせかけられ、壮烈な戦死を遂げた。時に三十一歳。
 三男源蔵は秋山伯誉守信友の養子となった。四男は金丸助六郎。信玄の奥近習頭で定光、別に昌義とも称した。五男が金丸惣蔵。十三の年に初陣をかざり、首級をあげるという目覚ましい働きを見て、武田水軍の将岡部忠兵衛定綱が一目惚れして、「養子にもらいたい」、と信玄に申し入れた。
 岡部は今川氏真の家来で、舶十二、同心五十を預かる大将だったが、信玄の家臣となったもので、養子縁組を機に信玄の命で土屋と改姓した。
 永禄十三年(1570)、惣蔵十五歳の時、正式に話がまとまって土屋惣蔵昌恒となった。
 長篠の合戦で養父忠兵衛も討死。惣蔵は勝頼の近習であったので落ちのびる勝頼のお供をして甲府に戻り、のち兄昌次と忠兵衛の二人の家禄を併せてもらうことになった。
 天正十年(1582)の天目山(山梨県東山梨郡大和村)の武田滅亡の合戦では、山中の杣道の岩陰に拠り、単身で押し寄せる兵を次次と斬って捨て、西の谷川に蹴落としたので、谷川は三日間鮮血に染まり、三日血川といわれた。
 のちに、なまって日川となったのだと伝えられ、今もその場所が「土屋惣蔵片手斬り跡」として、現存している。二十七歳で勝頼に殉死した。
 七男の源蔵も田野で殉死したが、秋山信女の養子になった兄が病死したので、その跡継ぎに信次にもらわれ、秋山源蔵親久となったもので、源蔵は二十一歳であった。土屋兄弟がいずれも短命であったのに、六男の土屋惣八郎ただ一人、勝頼の子の信勝(大和村田野で自害)の小姓頭ながら天目山合戦に加わらず逃げのび、元和五年(1619)、六十三歳まで生きた。
 惣蔵にはその時点で二歳になる男の子があったが、惣蔵の家来の清水某がその子を連れて鴨河に逃げ、惣蔵と名付け駿州興津の清見寺に預けた。
 惣蔵が九歳になった天正十七年(1589)、家康が鷹狩の帰り清見寺で見かけ、言葉をかけたことから土屋の遺児と分り、自分の駕能に乗せて駿府に戻り、秀忠に会わせたうえで茶阿の局に養わせ、成人すると平八郎忠直と名乗らせて三百石を与えた。
 のち三千石から、王総久留里で二万一千石の大名にとり立てられたが、三十五歳で没した。常陸土浦九万五千石の藩主
土屋政直はその末孫である。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>