甲府市土屋華章製作所(土屋穣社長)甲府水晶業界の草分け
『甲陽重家録』山寺和夫氏著 昭和49年刊 一部加筆
水晶磨き、初代宗助
甲府市湯村一丁目十三番十一号、土屋華章製作所(土屋穣社長《現隆氏》・水晶美術彫刻置物製造・輸出) は、文政-天保年間 (1818~43)(仁孝天皇・徳川家慶将軍)に創業した山梨県甲府水晶業界の草分けという老舗である。土屋家所蔵の古文書によれば、今から一五〇年ほど前、土屋家当主、亀之助の四代前の同家始祖、土屋宗助が、甲州青嶋庄市川(現西八代郡三珠町上野一八五番地、通称川浦)に住んでいたとき、御岳の山奥で採掘したという水晶を手に入れた。宗助はこれを芦川の川原の石でこすり磨くことを覚えた。そして磨き上げた水晶を御岳・金桜神社へ奉納したという。その後宗助は(江戸末期)甲府市柳町三丁目に移り住み水晶細工所をはじめた。これが本県水晶業界の草分けとなったのである。
二代目、宗助
宗助の子宗八のときに水晶磨きが本業となり、はじめはおもに丸い水晶玉などをつくっていたことが、同家所蔵の古文書「大福帳」・「万注文帳」で実証されている。
三代目、松次郎 号「華章」
三代目、松次郎は「松華」と称し、印鑑
彫刻をはじめ、東滴道筋一帯にかけて印彫の技術を教えてまわった。松次郎の子、孝は明治十九年(1886)の生まれで、十七歳のときから水晶彫刻をはじめ、それより五十年間をその道一筋に専念し、今日の山梨の水晶彫刻技術の基礎を築きあげた名人である。号を「華章」といい、その功績を認められ業者としては初めての黄綬褒章を授与されている。現在の商号は先代土屋華章から得て名づけられたものである。
ところでこの時代の甲府における水晶関係の商人の数ははっきりつかむ資料に乏しいが、嘉永七年(1854)三月発行の 「甲府買物独案内」によると、
▽根本元祖、玉根附緒しめ、御数珠眼鏡、御跳御望次第、丸玉水晶細工所、柳町三丁目、土屋宗助
▽当国銘産、玉根附緒しめ、諸国銘石類、御数珠眼鏡、御挑御望次第、やまど水晶細工所、柳町二丁目、深輪屋甚兵衛
▽御数珠眼鏡、玉根附緒しめ、やましょう水晶細工所、金手町、亀屋彦右衛門と三軒の水晶細工業者が掲載されている。この三軒のうち深輪屋は甲府市の戦災直後廃業して県外に去り、金手町の亀屋彦右衛門についてはその後消息が明らかでない。したがって現在残るは土屋華章製作所だけである。
水晶関係の古記録がきわめて乏しい中に、土屋華章製作所に、初代宗助、二代宗八が使用した「大福帳」と「万注文帳」が保存されていることは歴史上から貴重な文献である。これは戦前柳町から、魚町に移りさらに今の湯村一丁目に移転し戦災を免れた同家が、数年前屋根裏から発見したものである。
この古記録は、初代宗助名儀のものは安政七年~文久三年(1860~63)にわたる大福帳と万注文帳各一個それに二代宗八名儀の明治五年~同十三年(1872~80)に至る大福帳一冊である。
祖先は武田家重臣伊賀守昌義
土屋家は初代宗助が今の西八代郡三珠町上野から甲府市柳町へ移り住んだのがその始まりとなっているが、宗助は長男ではなく土屋本家(土屋義郎家、三珠町上野)から分かれたものである。三珠町上野の土屋家所蔵、の系図そのほか古文書による、と同家の遠祖は青嶋庄市川に居を構えるまで武田家の側近家臣であったが武田二十四将の一人土屋右衛門尉昌次の後裔で、武田家滅亡により昌次の妻子は知縁あって青嶋庄市川(三珠町上野川浦)に任した。それより幾代か後江戸末期に、宗助甲府市柳町に移り、水晶細工所を開業し、宗八、松次郎(松華)、孝(華章)と続き当主亀之助に至っている。
当主亀之助は祖先に劣らない意欲的な実業家で、創案工夫し製作したものは数えきれないほどあり、広く海外に販路を開拓し、本県の水晶美術彫刻の第一人者として知られている。同人は昭和六年水晶業界入りして以来四十余年間、水晶美術彫刻の品質向上と販路拡張につとめ、昭和三十四年には山梨県宝石工職業訓練所長として技術者養成に当たった。また、中小商工業の育成についても常に陣頭にたって業界を指導し業界の長老としてなお活躍している。
しかし当主亀之助が業界に重きをなすに至ったのも同家の始祖宗助から先代孝(華章)の残した偉大な足跡が土屋華章製作所を今日のように隆盛、安泰に導いたものである。
先代孝(華章)は明治十九年甲府市魚町に生まれ、十七歳のときから祖父の水晶業をつぎ、それまで首飾り、文鎮、めがね程度の加工しかしなかった水晶細工を輸出できる彫刻品にまで高めようと、五十余年間を彫刻一筋に打ち込み、みずからの創意工夫と数種の機械を考案し、水晶彫刻に画期的な改善を加えた。一方輸出の伸長にも大きく尽力し、この間現在山梨水晶彫刻界の中堅として活躍している技術者百数十名を養成、また瑪瑙(めのう)細工を導入し原石の焼き入れ法を完成するなどの功績を残している。このため昭和三十一年四月二十日、水晶業者としては初めての黄綬褒章を授与された。なお当時山梨県水晶美術彫刻協同組合理事長の要職にあったが、昭和三十三年二月、七十二歳で残した孝(華章)は、昭和八年一月商工省が行なった全国の隠れた名工調査の際、本県から水晶彫刻の名工として推薦されている。
今から一五〇年前の文政年間(光格天皇、徳川家斎将軍)土屋亀之助家の初代宗助が三珠町上野から甲府市柳町へ移住し後、八日町へ移りさらに魚町へ移転したが、ここで甲府戦災にあった。現在地は戦災後移転したもので、水晶彫刻の置物を主として輸出用装身具類の製作、輸出をしている。輸出先はアメリカ九〇%と圧倒的に多く、イタリア、香港などで、敷地一五〇〇平方メートルに建てられている鉄筋コンクリート造り三棟のうち、第一工場、第二工場で働く従業員により生産される製品は、年産およそ一億二千万円に達している。同工場で使われる水晶原石はブラジル・アメリカ・インドから輸入している。社長の椅子を長男・穣に譲り今は取締役会長として第一線から退いた当主、亀之助は齢六十八をかぞえながらも、水晶細工技術の後継者養成に努力して、その功績は高く評価されており、このため現在のように技術者が増え一昔の徒弟制度廃止に大きく役立った。将来の水晶業界は縦の系列化か横のブロック化を推進し、お互いに団結して行くことが肝要だと説き、こうした体制をつくることにより外国の大資本に対抗しなければならないと土屋会長はいっている。また自主的のお得意を持ち、適切な相手業者を見つけて営業する方策は絶対に必要だと強い信念に燃えているファイトマンでもある。
当主亀之助は韮崎市韮崎町の旧家、故岩下弥市郎の三男として生まれ、先代孝(華章)の長女「いよ子」の許へ養子入りした。「いよ子」は昭和十五年歿している。先代の妻、「ことじ」は四十七年八月、八十八歳で没したが、四十一年十一月十日、県水晶彫刻業界に努力した功績が認められ、婦人としては初めての表彰を甲府市長と甲府市工業協会長からうけている。当主には男一女二の三人の子供がある。
亀之助の長男穣は東京芸術大学卒業後、家業に従事し現在、土屋華章製作所の取締役社長として父亀之助のあとを継いでいる。穣社長の妻、寿々江は塩山市上於骨の名家石川孝重の娘である。同家は水晶彫刻業界の重鎮であり県水晶業界に大きく寄与している優秀企業のため、各方面の人たちが視察に訪れているが、元宮家の東久廼盛厚氏、島津貴子さん、皇太子妃殿下・美智子様、美智子妃殿下の御父母、正田氏夫妻、マッカーサー元駐日米国大使など内外の貴人、名士が同工場を視察に訪れている。土屋家は代々群を抜く賢人を輩出してきたが、祖先代々に於ても輝く実績と不滅の歴史を作った。そしていずれ第六代目の当主となる穣社長も父に負けず家運主企業の発展をさらに伸張させることだろう。
連綿伝わる粳(うるち)粉の餅
同家の家紋は本家と同じく「立三ツ石」である。土屋姓とこの家紋は武功あった同家の祖先に武田氏から贈られたものである。同家には初代というより土屋本家から連綿として現在まで伝わる珍らしい「しきたり」が伝えられている。それは別項で詳述するが、同家の祖先で武田信政の重臣だった金丸飛弾守光政は、主君信政に従い北国に攻め入った。しかし十二月二十八日になっても敵を攻略することができなかった。目の前に正月元旦を控えていたので正月用の餅つきを陣中で行なったが餅米がなかったのでウルチ米を粉にしてふかし、これをウスに入れて餅つきをして四角のノシ餅にした。これを小さく切札餅とし神に供えた。これが神仏に通じたためか、すぐ勝敗はついて武田勢の勝となった。これが金丸飛弾守の提案で行なわれたので、同家では以後正月用の餅はこのようにすることを慣習とし、信玄公より土屋姓を賜わった後もこれを継ぎ現在もウルチ米で餅つきをしている。実に尊い伝統の習慣である。
土屋家先祖代々の墓所は、甲府市岩窪町の大泉寺にある。この寺は大永元年、鏡島宗純の開山による曹洞宗の名刺で、武田信虎の墓所がある。墓石は正面中央に、家業にふさわしく、水晶を形づくった石碑をしつらえ優雅な感じのする厳粛なものである。
土屋義郎家系
土屋右衛門尉昌次が始祖(後三方原軍功により信近と改む)
西八代郡三珠町上野一八五番地に住む山梨県が生んだ名画家・土屋義郎は、武田信玄が信州川中島に出陣した永禄四辛酉(1561)九月九日、歳わずか十七歳で戦いに参加し大きな武功をたてたことにより、信玄から土屋の苗字を賜わった金丸筑前守の次男、右衛門尉昌次から数えて十四代目の後胤に当る。土屋家では土屋の姓を名乗るよう信玄からいわれた右衛門尉昌次を始祖としているが、同家の祖先は土屋姓を名乗る前までは金丸獲で、同家にいま所蔵されている家系図によると、同家の由緒は清和源氏義朝の家臣、鎌田兵衛政清である。政清の孫、鎌田藤治光政が武田家に仕えて金丸飛弾守光政といった。これより八代経て金丸伊賀守源昌義は武田信昌の第一の側近家臣となった。武田信昌公御下知にて安正三年(?)十二月二日に北国に立越合戦、勝敗決らず伊賀守源昌義は部下に命じて粳粉で切餅をこしらえて神にそなえた。神慮にかないしや勝をえて帰陣した。吉事なりとして家例として現在まで実行している。金丸伊賀守の嫡子は金丸若狭守で武田信縄の中老職をつとめたほどの人物だった。その子金丸筑前守はわずか十八歳で家督を相続したが、この時は武田信虎そして信玄と主家の主君は変わっていた。筑前守は主家が他国に出陣し勝ったときの儀式に際しては「南天御手水入持役」をつとめ、弓手に座を与えられたと土屋義郎家の古文書に書いてある。また筑前守は勇将で信玄より手勢二〇〇騎を与えられ一方の大将だった。筑前守の長男平三郎は二十一歳で討死したが次男平八郎は十七歳で川中島の合戦に参加し武功をたて、信玄より「土屋」の苗字を賜わったのである。平八郎昌次は二十二歳で侍大将となり、二十八歳のとき右衛門尉を仰せつけられた。元亀三壬申(1572)十二月二十二日、遠州「三方原の合戦」 のせき、徳川
家康の重臣、鳥井四郎左衛門と太刀打ちし、右衛門尉は自分の「明珍星」の甲を切り割られたが首に太刀があたらず奮戦の結果、四郎左衛門をみごと討ち取った。このことはよく講談に読まれたものである。
この戦功により信玄の一字をとり初めて信近の名を賜わったのである。天正三年(1575)五月二十一目、長篠の戦いで織田信長の先峰の「滝川の備え」の柵木を独りで破り敵陣に攻め入ったが鉄砲にあたり討死した。信近このとき三十一歳。信近の一子直治郎はまだ六歳だったと記録にある。
さて筑前守の七男、源蔵は秋山伯耆守の養子となり、四男助六郎は信玄の奥近習をつとめた。五男金丸惣蔵は勝頼の小姓頭となり、その後駿河に備えて武田家の海軍(信玄時代からあった)の将といわれる岡部忠兵衛(後の土屋備前守)に忠節をつくし、認められて惣蔵は備前守の養子となった。また六男惣八は勝頼の小姓頭をつとめるなど兄弟そろって武田家の重臣として忠節をつくしたわけである。
土屋惣蔵は二十歳のとき早くも士大将(さむらい大将)となり勇名をはせたが、天正十年(1582)三月十一日、勝頼天目山で自害のとき惣蔵は討死した。惣蔵はこの戦いで片手切りの名人として敵陣をおびやかしたものだった。惣蔵の妻子は小宮山内膳の弟、又七郎と共に三河の国に落ちのびたが、信近の妻子は知緑をたどって青嶋荘市川(土屋義郎家の現在地)に居住するようになったのである。信近の嫡子は成人して土屋小太夫と改め信尚と名乗った。この信尚が現在の土屋義郎家の先祖で六十五歳にて残した。信尚には嫡子平五郎、次男岩次郎、三男儀十郎のほか四人の女子があった。平五郎は成人して土屋弥兵衛信之と改めた。信之の一子平吉は後三左衛門信久と改めている。また信久の二男惣五郎は関東の御郡代、伊奈半左衛門の手代頭となったが後、土屋忠治郎の養子となった。この忠治郎は御公儀御書院御番組頭役をつとめた。信久の嫡子亀次郎改め三右衛門信通の嫡子亀三郎には二人の女子があった。三右衛門信通から百姓となり、名主・長百姓となったと土屋養郎家所蔵の古文書に書いてあり、そのときは元禄二己申(1689)年正月吉日で土屋三右衛門源信通と署名されている。
当主義郎はこの右衛門尉日日次から数えて十四代目に当たる。
土屋姓の創始については諸説あり、清和源氏源義朝の家臣鎌田兵衛政清を祖とし、その後裔源昌義は武田信光に仕え金丸伊賀守を称した後孫であるとするもの、源姓足利右馬頭泰氏の勇、一色宮内法印公深を初祖とし、その後一色藤直の男藤次が金丸氏の祀を興し金丸伊賀守光信と称した。その男は若狭守虎嗣で、虎嗣の男筑前守虎義(士隊将)に数男一女あり、長男平三郎昌直、次男右衛門尉昌次、五男惣蔵昌忠、六男惣八正直の四人は土屋氏を冒し、三男左衛門佐昌詮、七男源蔵親久の二人は秋山氏を嗣いだ。四男助六郎定光は父虎義の後を承けて金丸氏を称し士隊将になったとするもの、さらに甲斐国の土屋氏は鎌倉幕府頼朝の重臣土屋三郎宗遠を祖とし平姓であるとしているものなどである。虎義の男平三郎と平八郎は、土屋氏の本家に後嗣なく絶えたのでこれを相続したもので、平八郎昌次(右衛門尉)から源姓になったと解釈すべきではないか。伝承によると、金丸氏は本家だけが金丸氏を称する慣習であるという。
郷土が誇る偉大な画家
さて当主義郎の父玉之助(五十一歳で没す)は、医者になろうとして静岡県の大宮へ行き医術を修得して医師の代診などしていたが、その後南都留郡鳴沢村に伝染病発生した時医師として活躍(明治三十二、三年頃)し喜ばれた。後製薬に専念し、保寿館の薬として庶民に親しまれた。その手腕を買われ、土地の郡会議員渡辺綱吉の長女をめとり、鳴沢村に永住し一男二女をもうけたが五十一歳で逝去した。
義郎は祖父母に育てられ、山梨県立師範学校(現山梨大学教育学部)を卒業後、教員生活を三年ほどしたが、絵画に専念するため大正十一年退職して上京。岸田劉生、木村荘八、中川一政等の主宰する草土社展に出品、十七点入選、同人となり画壇への第一歩をふみ出した。大正十二年春陽会展第一回展に入選、大正十五年無鑑査出品に推せんさる。昭和二十二年会員に推薦され現在、五十回展を数えるに至った。聖徳太子奉賛展委員、文展無鑑査委員となり、赤蓼会、麓人社、九夏会等を結成、友人後輩を指導啓蒙する。昭和十一年山梨美術協会を発足させて郷土の文化向上に力を注ぎ、昭和二十二年より四十四年まで委員長をつとめたが健康上から辞退して名誉会長となった。昭和三十四年三珠町文化財審議委員長、文化協会顧門のほか、山人会、山梨県芸術祭委員として活躍、昭和四十六牛山梨県文化功労者賞、勲五等瑞宝章を受章の栄誉に輝いた。
義郎の妻、里子は塩山市赤尾の旧家、保坂和一の次女で、夫婦の間には子供三人ある。長女享子は市川大門町の大木泰男(県庁職員)に嫁し、次女曜子は京都大学大学院出身で、市川大門町の名家、現県議会議員有泉亨の弟、有泉貞夫(県議会誌編纂委員、県教育史編纂委員)に嫁している。長男の昌也は早稲田大学建築科卒業後、現在東京の三井建設㈱設計企画開発部長をしている。
◇
土屋家には門外不出の家宝がある。御陽成天皇の第八皇子(八の宮という)法親王良澄は勅勘を蒙り甲州湯村に流された。ときは徳川家光将軍、寛永二十年十一月十一目(一六四三) のことだったが、万治元年二月(1659)許されてかえった。このとき親王は五十六歳で足かけ十七年間甲州におり、和歌や筆蹟を残している。この間土屋家の菩提寺である薬王寺に親王が留まったことがあるが、たまたま時の住職と親しくなり、京都伝通院の庭の風景を思いうかべて絵に書いた巻物一巻が(長さ三メートル)土屋家に所蔵されている。これは当時の作品としては逸品であり、法親王の筆になる品だけに貴重なものである。このほか名主時代の宗門改め帳や同家の先祖が京都へ行き勉強したとき持ちかえったといわれる人の道(心学)を説く教科書「やしない草」それに連綿と伝わる家系図など古文書が多く所蔵されており、家系のいかに永いものかを物語っている。