Quantcast
Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

横田備中守高松(よこたびっちゆうのかみたかとし)

$
0
0

イメージ 1

横田備中守高松(よこたびっちゆうのかみたかとし)

『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著 
臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆


 横田備中守高松は近江佐々本の一流、次郎兵衛義網が初めて横田を称し、その五世の孫であるという。‐
 鬼美濃(原虎胤)より十歳の年長というから、長享二年(1488)生まれあたりらしい。信虎に仕えた足軽大将であった。信虎は歴戦の屋下の将二百二十騎の中から七十五人を選りすぐり、さらに三十三人にしぼった。一騎当千の荒武者ぞろいであったが、戦死あり病死ありで、外様衆で信玄の代まで生き残ったのは、この横田の他に、多田、小畠山城、鬼美濃の四人しかいなかった。
 信玄にとって信虎ゆずりの得がたい武将の一人であったが、高松は合戦に臨むと、敵の動きを敏感に読み取る術に長じ、敵の虚を突くのが得意でおった。
 ところが後続の駆けつけるのが遅れたりすると、しばしば危機におち入りやすいもろさがあった。そこで信虎は高松隊には兵を多くつけるように気を配ったという。
 子供が無かったので、子沢山の鬼美濃の長男彦十郎を強引にもらい受けた。のちの横田十郎兵衛康景である。
 合戦の際は甘願隊に所属したが、戦場に臨むこと三十四度、刀疵槍疵合わせて三十一創あり、食禄三千貫をもらった。
天文十九年九月一日から始まった戸五絃(長野県上田市)の合戦で死亡した。時に六十六識の老将であったが、戦場で死ねたことは、高松として本懐であったに相違ない。
 戦国時代の侍の仕官は「命を売る」ことであって、扶持を頂くことは「君恩」として受けとめられてきた。したがって 恩を返すには、戦場でいさぎよく死んでいくよりしかたなかったのである。
 十郎兵衛康景は高松の跡を継ぎ、三十騎に足軽百人を預けられた。鬼美濃の子だけあって、十六歳で初陣を果してから二十七年の間、諸合戦に出て手柄を立て、感状を十九もらっている。
 早くから鉄砲の威力に目をつけ、甲州に鉄砲の指南にやって来た伊予の浪人河野流の佐勝一甫斎について、みっちり修行を重ねて腕をみがいた。
 鉄砲が甲州に待ち込まれたのは信虎の代であらたが、普及するまでにはいたらなかった。
 信玄の若い頃、加治良大膳父子が鉄砲を持ち込み家臣に教えたこともあったのだが、合戦の武功とは自分の手で敵の首級をあげてみせることであったから、鉄砲で撃ち取る首は邪道と考えられ、本気で習得しようとはしなかったのだ。永禄五年(1562)の武州松山城攻めで鉄砲による苦杯をなめさせられた教訓から、康景はとれからの合戦は鉄砲に限ると考えを新たにし、本気で打ち込んだものである。
 永禄九年(1566)七月、謙信が一万三千の兵を率いて上州和田の城(群馬県高崎市)を囲んだ。
 甲州から援軍として康景が駆けつけ、流域態勢に入り、城内の総指揮に当って謙信としてはひと押しに攻め取るつもりでいたところ、本陣目がけて鉄砲玉が飛び込んでくる。そのつど必ず誰か殺られる。
 偵察させると康景が櫓に上り、鉄砲をかまえて、一人で狙い撃ちしていることがわかった。たった一挺の鉄砲のために攻めあぐねる結果になったばかりか、日を重ねるごとに謙信眼下の侍大将が次々に撃ち殺され、そのうちに謙信自身まで撃ち殺されかねない情勢になったので、和田攻めをあきらめ包囲を解いて越後へ引きあげてしまった。
 これを知って康景を賞めたたえぬ者はなかったが、康景は手柄顔一つ見せなかったし、信玄も賞め言葉一つ与えなかった。賞められて喜ぶ康景でないことを知りぬいていたからである。
 康景と共に鉄砲の名人といわれた一人に日向藤九郎がいたが、皮肉なことに永禄五年の松山城攻めの際、鉄砲玉に当って戦死した。康景は子供のころから本に親しみ、武田家臣団きっての物識であった。
 満座の中で物真似をしてみせ、合いの手に風刺の利いた洒落を言って、皆を笑わせるのも得意であったが、その面で勝るとも劣らなかったのは内藤修理であったという。長篠の合戦では足軽大将の本領を充分に発揮して奮戦、討死した。五十一歳。
 その子甚五郎も祖父・父に劣らぬ・猛将であった。天正八年(1580)、竺州高天神城(静岡県小笠郡大東町)に立籠っていた甚五郎は、勝頼から交替せよと命じられたが、踏みとどまって家康軍を食いとめる、と返事を出して戻らなかった。のち脱出する羽目になり、甲州に戻り、勝頼から褒美として刀一振りを与えられたが、祖父・父にも例のないこととして返上するという「さむらい」であった。その年二十七歳。のち家康に仕え横田鶴右衛門尹松と名乗り、寛永十二年(1635)、八十歳で没した。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

Trending Articles