武田24将 小山田兵衛尉信茂
『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著
臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆
信茂は出羽守信有の嫡男として、天文七年(1538)に生まれた。母は信虎の妹であるから信玄とは従兄弟である。
川中島の合戦で目覚ましい働きをみせて信玄の信頼を受け「弓矢の御談合七人衆」の一人に加えられた。最年少ながら馬場・山県・高坂・原美濃などと肩を並べて軍評定の席で、堂々と意見をのべた。
学識も深く文才にも恵まれ、『甲陽軍艦』にも「(信玄は)文のいることは弥三郎(信茂)を召して、七言五経を言わせて聞き給う」とあり、山県も「若手には小山田弥三郎、毎事も相調いたる人なり、また文字の事は常に弥三郎に読ませて聞き給う」と、高く評価している。
信茂は書状、感状の代筆や難解な文書の解読までやった。
甲府石田に小山田備中守昌行(常行とも)がいる。「甲斐二十二将」にあげられている小山田備中とは父の昌辰のことである。紛らわしいので昌行は「石田の小山田」、信茂は「郡内の小山田」と言われた。
拠城は岩殿山(大月市)の要害であった。 天正十年(1582)三月、織田・徳川の連合軍に攻められた勝頼は、真田昌幸に上野岩櫃城(群馬県吾妻郡吾妻町)に拠って再起を図るように勧められた。
昌幸は勝頼を迎え入れるため、岩櫃山南麓に居館の工事を始めた。ところが勝頼は長坂らに反対され、岩殿山に立て龍ることにした。新府城(韮崎市中田町)を、出て郡内を目指したが、信茂は家臣や領民の行く末を考えて、郡内に入ることを拒んだ。
勝頼は夫人、子の信勝、従う家臣らと天目山で自決に追いやられた。
三月十三日、信茂は母と子、家臣と共に甲府善光寺の織田信長の本陣へ出頭を命じられ、そのまま宿坊に留め置かれた。二十四日の朝、信長は足軽大将の堀尾茂助に全員の謀殺を命じた。
信茂はそれを察知して、自ら首を差し出した。時に信茂四十三歳。母は七十余歳。男の子は八歳。女の子は三歳。首級は初狩(大月市)の隨龍庵に埋め、胴は善光寺の裏に埋められた。