武田武将 土屋右衛門尉昌次
『甲斐国志』巻之九十六 人物部第五 武田氏将師部 一部加筆
(諸録ニ名直村ニ作ル者多シ、今金丸系図並ニ大泉寺牌子ニ従イ昌次卜為ス、一系晴網ニ作ル)
金丸筑前守虎義ノ二男、始平八郎トイフ、奥近習六人ノ一ナリ、「軍鑑」ニ永禄四年(1561)河中島ノ功ニ因り、氏ヲ土屋卜改ム、時ニ十八歳、廿一歳ニテ士隊将ニ擢ンテラル、同十三年(1570)加倍シテ属百騎、信州ノ粕備七組ヲ統領シ、右衛門尉卜名乗ラシム、旗ハ黒地二白キ鳥居、家ノ紋九曜ナリ、按ニ永禄十年丁卯(1567)八月七日、信州下ノ郷起請文奉行金丸平八郎殿卜名宛数通アリ、同十一辰(1568)年以後ノ文書ニハ土屋平八郎奉之卜記セル者所在ニ見エタレハ、此時氏ヲ更シケン、四年ノ事ニハ非ラジ、天正三年(1575)戦死 ス年三十一(算軍鑑所記当三十二)府中大泉寺ニ牌子アリ、昌次院殿忠屋知真大居士、本州ノ土屋氏ハ鎌倉ノ土屋三郎宗達ヨリ出ズ、平姓ナリ、金丸ノ子男始ヨリ平三郎、平八郎卜名ニ喚フ時ハ数世ノ間如何ナル縁カ有ケン、土屋ノ本家絶エタレバ、相続ナスヘキ約束ハ疾ニ足リシ事カト覚ユ、而昌沃土屋氏ヲ冒シテ後猶本姓ヲ改メザリシニヤ、土屋氏源姓為ルコトハ、蓋シ昌次ヨリ始ル昌次ノ兄弟多シト雖モ本家一人ヲ金丸トシ、余ハ皆土屋氏ヲ称スル例ナリシト云金丸氏ノ伝ニ委記セリ
土屋惣三昌忠
(諸記多昌恒ニ作ル、今景徳院旧牌ニ従フ、一系昌雅ニト為ス即是也)
金丸虎義ノ五男即チ昌次ニハ弟ナリ、勝頼ノ小姓幼ヨリ英名アリ、「軍鑑」ニ永禄十三年(1570)十五歳ニシテ駿州先方ノ士、土屋備前ノ養子トナル、長篠ニテ備前並ニ兄昌次死ニタレバ二人ノ家禄ヲ併テ賜ハリ、両部ノ兵将タリ、田野ニテ殉死年廿七法名忠庵存孝居士、旧牌ニ昌忠院卜記セリ、今昌恒院ニ作ル、大泉寺牌同之按ニ「大宮神馬奉納記」ニ神馬五匹(土屋石衛門尉)同一匹(土屋石衛門尉同心共)所在ノ所蔵文書ニモ天正三年(1575)ノ後土屋右衛門尉卜記ス者数多見エタレハ、長篠ノ役後ハ称ヲ改シ趣キ明ラカナレド名ノ顕レタル人ニテ、世ニハ惣三トノミ覚エ記録セシナラン、当時ノ実ニハ脊ケリ。
土屋民部少輔忠直
昌忠ノ遺子ナリ、諸録ニ土屋宗蔵、妻ハ駿州ノ士岡部丹波守女也、壬午後宗蔵ノ児二歳ナルヲ抱キ岡田竹石衛門ニ再嫁ス(松平周防守ノ家臣ナリ)、「編年集成」云、天正十六年(1588)十二月宗蔵男平八郎幼少ニシテ岡部忠兵衛真規ニ倚(ヨ)リテ清見寺ニ於テ拝謁ス、阿茶局ニ養育ヲ命セラル、後任民部少輔常州土浦城主ナリ(阿茶局ハ本州人飯田氏女神尾某ニ嫁シテ一男ヲ生ム又養岡田氏ノ子忠直同母弟以テ子卜為ス、今幕府神尾氏数家アリ、委曲小石和筋士庶部ニ記ス)附、云越後少将忠輝卿ノ母公ニ忠直ノ養育ヲ命シ、後忠輝卿ノ女忠直ニ媛スト記ス者アリ誤レリ、忠直ハ惣三ノ遺胤壬午ノ産ナリ、同十六年(1588)七歳ニテ幕府ニ謁シ、十九年(1591)羽州禰宜村ニ於テ、千石土屋平三郎卜称ス、御小姓ニ出ツ、慶長五年(1600)叙従五位下住民部少輔、同七年(1602)賜上総久留剰二万千石、森川金石衛門女ヲ娶ル時年廿一、同十七子年(1612)四月九日逝、三十一歳ナリ、忠輝脚ハ文禄元年(1592)元辰ノ誕生ナレハ、恩恵ヨリ少事十歳成長ノ女子アルベケンヤ、母公ノ名於茶ノ方卜称スル故ニ、諸記ニ往々阿茶局ニ混同セリ、局ハ従一位ニ叙シ、神尾一位局卜云、謚(おくりな)雲光院殿、於茶方ハ朝覚院殿卜謚セラル。
土屋忠兵衛知貞
初メ左門卜云、大坂ノ諸録ニモ見ユ、子孫幕府ニ奉仕(五百石ナリ)忠兵衛ヲ以テ家名トセリ、其先ハ鎌倉ノ功臣土屋一郎平宗遠十二世ノ裔豊前守氏遠(始云ウ、平三郎父平左衛門宗貞明徳中死)其女武田石馬助信長ニ嫁ス(即伊豆千代丸ノ母ナリ)、氏遠ハ武田氏ニ属シ、其男ハ忠兵衛景遠備前守ハ称シ、景遠ノ男伝左衛門勝景、武田信昌婿卜為ル、大永二年(1522)逝ス、法名正円(「一蓮寺過去帳」ニ、永亨十一年(1439)八月廿日善阿、土屋氏、文明頃(1469~86)年月ナシカ阿土屋備前ト見エタリ)勝景ノ男伝助信遠、大永四年(1524)信州ニ於テ戦死、其子昌遠幼弱ナリ、豆州太平ニ退テ(今属駿州)蟄居、是モ云ウ、伝助病不仕其男ハ盲人名円都、神祖ニ拝謁、後ニ京都ノ職トナリ、伊豆検校卜称シ元和七年(1621)十月廿五日逝ス、年八十一、忠兵衛知貞ハ即チ検校ノ男子ナリ、右衛門尉昌次ニハ此家蹟ヲ興サシムルナリ。
岡部忠兵衛
「軍鑑」ニ云、船二十艇同心五十騎、本今川ノ十八人衆ナリ、武功ニ依リ氏ヲ更メ土屋備前卜為ス、男子無シ故ニ宗蔵ヲ贅トス、備前ハ長篠ニ戦死スト云云(「四戦紀聞」、「隔年集成」等備前直規ニ作ル、或忠兵衛裔備前為二人記モアリ、「禁秘録」云、土屋右衛門尉直村討死ニヨリ、金丸平八郎ヲ土屋右衛門尉卜為シ、岡部忠兵衛晴綱ヲ以テ直村名蹟卜為シ、土屋豊前守卜改ム、二人共討死故宗蔵昌恒ヲ晴綱ノ名蹟ニ申付ラルトアリ、諸説錯雑シテ所取采次ナシ)土屋ハ旧家ニテ一族ノ人猶本州ニ在シヤラン、夫レヲ唱へ違へシカ、岡部ヲ土屋ニ改ムトイウ事ハ覚束ナシ、岡部丹後卜記ス事ハ殊ニ誤ナリ、丹後ハ天正九年(1581)ニ死セリ、「理慶尼記」(全文附録ニ載セタリ)ニ土屋兄弟三人戦死ノ事ヲ記シテ、兄土屋(惣三ノ事)五歳になる男子を自ら刺殺けるに御たい所のうた
のこりなく ちるべきはるの くれなれど こすゑの花の さきだつはうき
つちや女房かへし
かひあらし つぼめる花は さきたちて むなしきえたの ははのこるとも
三歳ナル女子ヲ母ニ抱カセ、馬ニ昇ノセ、駒飼宿ヨリ追戻シタル事ヲ記セリ、忠直ハ此年ノ出生ナレハ、遺腹ナル事明ケシ。
土屋二郎石衛門昌吉、同源左衛門昌久、同惣八郎
三人ハ壬午起請文ニ近習物頭衆トアリ、同次郎右衛門ハ土屋同心ナリ、府中白山神主ノ所蔵土屋図書蔵ム、三月十日勝頼朱印ニ見ユ、同原五衛門ハ「軍鑑」ニ小姓衆ナリ、田野ニテ殉死、法名実山全性居士(寺記ニ小原氏トス非ナリ、一書ニ曰、津川玄蕃ノ家人佐々木半右衛門先登シ、土屋源五右衛門ヲ討ツ、今日ノ一番首ナリト)惣八ハ金丸ノ記中ニアリ
大蔵新蔵
軍鑑ニ小姓衆ナリ、末書ニ云、大蔵大夫ノ子新蔵ナリ、土屋右衝門尉名字ヲユルサセ、近ク召仕ハル信玄ノ殉死セントイウシヲ抑留セシカバ、長篠ニテ討死ストアリ。
土屋右兵衛尉
天正十年(1582)十一月廿七日甲州上石田内七拾質文本給ノ御朱印一通アリ
土屋与三
千野郷拾壱質文ノ御朱印一通ハ恵林寺領与次右衛門卜云者蔵之土屋氏ノ類族繁多ニシテ、今尽ク校考ナシ難シトイウ。