『甲陽軍艦』品第五十一「甲州味方衆の心替わり」
『甲陽軍艦』品第五十一「甲州味方衆の心替わり」天正二年(1574) 高天神落城 勝頼29歳(『甲陽軍艦』原本現代訳 発行者 高森圭介氏) 〔勝頼、長坂長閑らの意見を重視するようになる〕◇...
View Article武田信玄、恵林寺での葬儀 武田滅亡
恵林寺での葬儀(「武田信玄の生涯」『別冊歴史読本』)昭和62年)新人物往来社 信玄の死を契機として、畿内の信長包囲網も瓦解していった。●信長...
View Article信虎・信玄随伴「高白斎日記」
信虎・信玄随伴「高白斎日記」明応七戊午年(1498)~天文二十二癸丑年(1553) ○明応七戊午年(1498)正月六日、信虎公誕生。同六月十一日、大地震。 ○明応八己未年(1499)朝鮮より一切経渡る。 ○明応九庚申年(1500)九月二十八日、主上(後土御門天皇)崩御(御年五十九)。 ○明応十幸酉年(1501)二月二十七日、栗原式部大輔騎馬二百騎之を預かる。...
View Article信虎、信玄随伴『高白齊日記』2
○天文十七戊申年(1548)^正月小戊司。正月十七日甲午、畑一反元松(未詳)より鶏菴(未詳)へ。高白より畠一反鶏菴へ寄進す。畠一反仏殿へ是は元松より。正月十八日乙未、御具足召し初まる。信州本意に於いては相当の地、宛行わる可くの由御朱印下され候。二月大丁未巳刻、坂木(現坂城町・村上義清の居城)に向かう。雪深くつもり候間、大門峠より御出馬。細雨、夕方みぞれ。二月二日戊申、小山田出羽守(信有)出陣。二月十...
View Article北杜市文学講座 山口素堂 門人とされる黒露・馬光・素丸
馬光と素丸 馬光は『葛飾正統系図』によれば、二世其日庵を名乗り初名を素丸といった。俗称は長谷川半左衛門・藤原直行。名を白芹と云い、素堂の門に入り絢堂素丸と改め、後に其日庵二世の主となり、『五色墨』や『百番句合』を著した。...
View Article北杜市文学講座 山口素堂と寺町百庵
寺町百庵 寺町百庵は素堂の一族の出身であると『俳文学大辞典』などにも記載がある。百庵は元禄八年(1695)の生まれである。百庵の考証は中野三敏氏の「寺町百庵の前半生、享保の俳諧」に譲り、諸書に紹介されている略歴を記すと、姓は寺町、名は三知(智)また友三...
View Article北杜市文学講座 山口素堂 『毫の秋』 素堂嫡孫 山口素安の文
『毫の秋』 素堂嫡孫 山口素安の文 執文朝が愛子失にし歎き、我もおなじかなしみの袂を湿す。 まことや往し年九月十日吾祖父素堂亭に一宴を催しける頃、 よめ菜の中に残る菊といひしは嵐雪の句なり。猶此亡日におなじきを、思ひよせて、十日の菊よめ菜もとらず哀也...
View Article北杜市文学講座 山口素堂 「山口黒露(雁山)と寺町百庵」
黒露(雁山)と百庵 其角と嵐雪が死んだ宝永4年(1707)、雁山は22才、百庵は13才。素堂はこの時期元禄16年末の地震火事で焼け出され、宝永元年に深川六間掘の続き地に家の建築願いを出して上洛の旅に出て、京都で越年して宝永2年5月末に江戸に帰った。江戸の家を守っていたのは子光か僕伝九郎、それに雁山であったのであろうか。...
View Article北杜市文学講座 白州町古屋五郎氏「南十字星の下に」
南十字星の下に」故古屋五郎氏著まえがき◇本書は、昭和二十七年七月未から、翌二十八年一月まで、約半歳にわたり、当時私の経営発行していた山梨毎日新聞に連載、異常の反響を呼んだ“南九陸軍病院事件の真相"である。驚くべきこの事件は、著者が発表を強く拒んできたため、その真相は、極く少数の人だけしか知らなかったのであるが、その頃、炎暑の中を県境菅原村(現白州町)に日参して〃大義をつらぬけ〃と説く私の執念と、経営...
View Article南アルプスエコパーク歴史講座 甲斐駒ヶ岳
《甲斐駒ケ嶽の大観》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)甲斐駒ケ嶽は標高二九六五・五八メートル、南アルプスの北端に鎭座して、花崗岩の大三角錐を屹立させている。県内各地からそれと指呼することができ、中央道や国鉄中央線を通過する旅人を瞠目させる山岳景観である。特に七里岩台上から、釜無川の河谷の上に、二千数百メートルの高度差を持して一気に聳え立つ雄姿は格別に印象深いものがある。駒ケ嶽山頂を最高点として、その東麓...
View Article南アルプスエコパーク 資料 白州町の神社 天神宮社
南アルプスエコパーク 資料 白州町の神社 天神宮社祭神名 菅原道真公鎮座地 北巨摩郡白州町白須竹宇二七八六番地例祭日 四月十七日御由緒...
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