その他の武田二十四将
『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著
臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆
その他画像に描かれた二十四将には、栗原信盛、曾彌昌世、初鹿野忠次、真田昌幸、小幡信貞(定)、小原広勝などがいる。
栗原信盛は左衛門佐昌清であり、信玄に仕えた二百騎の侍大将であった。栗原氏は信玄より九代前の武田信成の子、栗原七郎武統を始祖として、栗原筋(山梨市)五十余カ村を支配したその末裔と称している。信虎の甲斐統一の際に従ったもので、合戦のたびに戦功をあげたが、天文二十一年(一五五二)信州常田合戦で重傷を負い、四十五日目に陣没した。
その子左兵衛尉詮冬に継がせたが、詮冬は二百騎の侍大将の器にあらずとして辞退、百騎だけを預けられた。
曾偏昌世は孫次郎のち内匠、さらに勝頼の代になって下野守と改めたが、三枝・真田と共に信玄の眼といわれた。信
玄の小姓をふり出しに足軽大将、さらに駿州興国城代(駿東郡原町)となったが、武田家の滅亡により信長・家康に下り、のち会津の蒲生氏郷に仕えた。
初鹿野忠次は信玄の御使衆の一人で、川中島で討死。
小幡信貞(定)は父憲重と共に信玄に降り、赤備え予防のうち五百騎を預けられた上総之介重貞のことである。
小原丹後守広勝は武田信満の子倉科氏の末孫で、弟の下総守と共に勝頼に仕え、田野で討死した。
真田幸隆の三男昌幸は、人質として十一歳の時甲府へ送られ、のちに大井夫人の生家とゆかりのある武藤家を継いだが、長篠の合戦で長兄信鋼・次兄昌輝が相ついで討死したため、元の真田昌幸に戻り、安房守となって上田城を築いた。
長男は信幸、次男は幸村である。慶長十六年(1611)配流先の九度山村で没。六十五識。(了)