織田信長と勝頼・秋山伯耆守の確執
◇ この秋山伯耆守は、居城下の美濃の侍、岩村殿(遠山左衛門尉景任)の後家を妻としていた。その後家は織田弾正ノ忠(織田信秀)の妹で、信長にとっては叔母に当るので、内密のうちにいろいろと信長から伯耆守の方へ和睦が申し入れられた。だが、伯耆守は少しも受けないので、信長から配下の美濃先方の侍衆で、小城をかまえている人々にむけて、信長衆を十騎ばかりづつ、警備に廻して補強し、ほかに砦も造り、全部で十八カ所とした。秋山伯耆守を押えこむためのそうした策は、そのころは美濃に岐阜、信長の居城があるから、用心のために多くの城を領有しようとしたのだ。
けれども岐阜へ上道(京都までの里程)七八里近くまで武田勢が浸透し、秋山耆着守が焼き払う働きを続けた。ことに勝頼公が、出馬されるにおよんで、二月半から四月上旬までの間に、信長が築いた砦、あるいは美濃先方衆、信長に降参した人々の城十八すべてを、勝頼公の御代に攻め落したのだった。
◆ その城は苗木・神箆・武節・今見・明照・馬籠・大井・中津川・鶴居・幸田・瀬戸崎・振田・串原・明智、これらの城を占拠して遠山与助(勘右衛門)を攻めにかかったが、このとき信長は六万あまりの軍で後陣をしいた。
◇ 明智(恵那)の向かいの鶴岡というところへ、信長軍の先鋒が陣を張った。山県三郎兵衝の軍は与力や予備軍も合わせて六千の兵力で、予定通りの戦力で道すじを制圧していった。
◆ 信長勢はそれを見て、山県勢の左の方へ廻りかげて攻めるとみせて、信長勢は早次退却した。
◇ 山県衆はかさにかかってその退却をくいとめようと追跡する。上道四里を、山県衆は六千の軍で、信長勢六万あまりを追ったことになる。けれどもそれ以降は山県が命令を発して追わなかった。
◆ そのあとまた信長は上道の里程で四里程後退して陣をしいた。信長勢は山県三郎兵衝をおそれて都合八里におよぶ後退をしたわけで、明智の城を簡単に勝頼公に明け渡した。信長を警備していた十六騎のうち九騎を討ちとった。残り七騎は逃がれた。その後、飯羽間(いいばざま)の城へ、信長川中島衆のうち三軍勢をもって攻めた。
◇ 馬場美濃、内藤修理をはじめ家老衆がそれぞれ申し上げた。
この飯羽間の攻めはこの度はとりやめて次に廻し、早々に引き上げた方がよい、と勝頼公に諌め申し上げた。あまり完全に攻めるのはどうかというのである。
◇ そこでまた長坂長閑、跡部大炊助が申し上げる。各家老衆の提案はいかがなものであろうか、やはり飯羽間の城一つばかり押えてみてもしかたのたいことです、と申す。
◇ 勝頼公も長閑・大炊助の言うことも、もっともだと裁定を下す。そこで牢人衆の名和無理介・井伊弥四右衛門・五味与三兵衛の三人をはじめ諸浪人が訴え願い出て、御代が替わったのを機に浪人衆に御奉公として飯羽間の城を攻めとらせていただきたい、と進言におよんだ。
これを聞いて、御旗本近習衆・外様近習衆のそれぞれが、御代替わりに、我ら旗本勢がこの城を落したいという。そもそも御家老衆が、攻めはこれで十分とお考えになるのはいったいどういうことか。遠慮する態度は内々のことでよい。数カ所の要害を皆落した後で、この飯羽間だけを攻めないでそのままにして置くというのでは、敵勢の情報の拠点となる。
それを浪人衆が攻め落そうと婆言するについては、統治に関する重要な所も浪人衆にさせるといった評判が諸国におよんでは、勝頼公の御ためにどんなものかと案じ申す。だから是非ともその城は御旗本勢に命ずべきだという。
これももっともだと長坂長閑・跡部大炊助も合点し、すぐに申し上げる。
勝頼公、熟慮されて御判断なされよという。
旗本の意向を聞いて城を攻め、とりまいた先鋒勢は、あの城は御工夫なされて攻めるべきだと言っていたが、牢人衆・近習衆がきそって攻めたいと願い出ているので、先鋒方衆はおくれては恥とばかりにすばやく攻勢に出て、瞬時のうちに飯羽間を落してしまった。
信長より派遣された警備衆十四騎の武者も一人残らず討ちとり、飯羽間右衝門を本城の蔵へと追いこんで生捕ってさしあげたので、勝頼公は上機嫌であられた。
各々大小上下とも武田勢は言い合ったものだ。御代替わって飛ぶ鳥を落す勢いの勝頼公、その御威勢は勇ましいものだと。
そして足軽・かせ悴者(かせもの)・小者ども下級侍たちは歌をつくって唄ったものだ。
その歌とは
信長は いまみあてらや いひはざま 城をあけちとつげのくし原
(信長は今見・明照・飯羽間・明智といった城を明け渡すまいと浅はかにも告げたが、串原の砦も落ちて、黄楊櫛のようだ)
こう謡ったが、甲州・信濃の下劣な言葉で、〃あてら"は浅はかなことをいうので、今見・明照といった城にかけて言ったのである。四月上旬に御帰陣となった。