芭蕉 三木露風
芭蕉の象徴は内に在って醸酵して居る。此点は僕をして想はず渇仰の念を起さすのだ。初期の作品にはまだまだ斯ういふところは見えぬ。ただ注意を牽くのは、匠工する力が案外なく、徹頭徹尾、行情の心を押進めてゐる点である。後にあゝいふ最善の詩境にまで往ったのは、此匠工(ウワーク)する力を捨てて抒情の力に依ったためである。芭蕉はそこから、生命の秘想を奪ひ取ったのである。
芭蕉は次に、形式を破壊しかかった。なるべく自由にして、自由な形で歌はうとした。是は今目まで経て来た現代の詩の傾向によく似て居る。しかし一旦破れた句の形は又だんだん旧へ戻ってった。旧へもどって往ったのではない。さう考へるのは謬りで、実は全く含蓄のある、別種の、澤然とした作風に入つたのである。この時の翁の句は、表はれた形式が直ちに内容とまで進んでゐた。
芭蕉のとったこの面白い過程を、現代の多くの詩人は如何に見るであらうか。我々は実によく爆発もする。大胆で白由である。さうして動かない韻律を動かすのである。
形式が直ちに内容の暗示、或は内容その物とまで押上げたのは芭蕉である。芭蕉一人である。(勿論黄では日本画の或物、其他モダーンは含まれて居ない)詩形は、印象を散漫ならしめぬために、至醇な言語を造るために、必ず短小なるべきものだとポー以来繰返した。しかし其事は我々に心配はない。目本の詩形は、短小のうちの最も短小なもので、又至醇なる言語を造ったと云へば芭蕉に如(シ)くは無い。
名所の翁は終始、言葉を消さうと務めた。言葉を消してその上に、白分の気分を雕(え)り付けようとした。言葉を駆使しようとせず圧殺した。夫故、芭蕉は、初めから言葉で自然をたたき潰す暴挙は企てなかったものと見てよい。
言葉を純粋にし、豊富にするといふことは、語彙(ボキャビュラリー)がどうといふことではない。寧ろ言葉を失ふことである。失践さすことである。
写実を重んずる側から、彼があまり部分に偏すると云はれるのは是れがためだ。併し、消えゆく言葉の上に漠然と顕はれる写象は、たとへ写象そのものが部分のやうに見えても、実は全体を最もよく示した内容でなければならない。
俳諧七部集の外に、その青年期の作なぞを併せて見ると、如何に同じ事柄に就てもさまざまな変化をしてゐるかといふことが興味深く感ぜられる。芭蕉の生涯を通じて最も関係の深いものは白然だ。
そして、その白然が最初は芭蕉にとつてもただ一つの対照者であった。対照としてた表面の自然のみが単純に取扱はれたむ厭世的、仏教思想を以て彩ったといふことはあつても、それは一つのボカシであって徹したものではなかった。此時分の旬には、華美な、或は瀟洒(ショウシャ)な、談林の風が染みこんで居る。併しこの自然をただ対照者としてながめ、それに喜怒哀楽を感じ、それを表面から扱ってゐるといふことに、漸く不満を感じだしたのは流石に翁だ。そして、自然と自分との表面の接触でなく、もって確かな、もっと深い物をと渇望してゐる。
即ち談林を去って、自然の奥秘に忍びこまうとして、次第に熱誠となり、真筆となり、洞察観照する気分が起って来た。
この洞察がなければ、詩は遂に最善の境を踏むことは出来なからう。併し洞察そのものは直ちに詩ではない。洞察し観照するといふことは表現の必須条件であっても詩の流動する生きた気分にはならない。芭蕉はただ知性に基いて、覚めた眼を以て自然を眺めたばかりであつたならば、ただ彼は達人の心を持ったばかりであらう。さうして名僧智織と同じく、哲学者の班にも入ったかも知れぬ。
併し芭蕉を冷かな如性からすくったものは、白然に対する彼の願望だ。彼はこの願望を以て、僅に批判から遁がれて、世にも懐しい象徴の詩人となることを得た。
芭蕉には勿論、入禅(エクスタシー)がある。しかし此事は古来から解されて居るやうな気難かしい浅薄な禅意ではない。覚めながらに夢を見る、さうして自然の生命に忍びこむ、深切な象徴である。雪舟の絵と利休の茶とは同じく共通するところはあるであらう。併し雪舟の胆力や寒さとは相違するし、又利休のやうに茶室にをさまることは出来なかった人だ。彼は実に彼自身の大きなところを持って居る。
実際我々が、創意を凝す詩とは何であらうか、科学といふ熔炉(るつぼ)で燻しきって、たとへ新しく鍛へ上げるにしても、一度は生命の鞴輔(ふいご)に翳さなければならぬ。たとへぱ芭蕉の其れのやうに何の思慮も費さず渋滞なく、一個の霊の不思議をやすやす彷彿さすことでなけれぱならぬ。(講談杜刊『目本現代文学全集38』所収)
芭蕉の象徴は内に在って醸酵して居る。此点は僕をして想はず渇仰の念を起さすのだ。初期の作品にはまだまだ斯ういふところは見えぬ。ただ注意を牽くのは、匠工する力が案外なく、徹頭徹尾、行情の心を押進めてゐる点である。後にあゝいふ最善の詩境にまで往ったのは、此匠工(ウワーク)する力を捨てて抒情の力に依ったためである。芭蕉はそこから、生命の秘想を奪ひ取ったのである。
芭蕉は次に、形式を破壊しかかった。なるべく自由にして、自由な形で歌はうとした。是は今目まで経て来た現代の詩の傾向によく似て居る。しかし一旦破れた句の形は又だんだん旧へ戻ってった。旧へもどって往ったのではない。さう考へるのは謬りで、実は全く含蓄のある、別種の、澤然とした作風に入つたのである。この時の翁の句は、表はれた形式が直ちに内容とまで進んでゐた。
芭蕉のとったこの面白い過程を、現代の多くの詩人は如何に見るであらうか。我々は実によく爆発もする。大胆で白由である。さうして動かない韻律を動かすのである。
形式が直ちに内容の暗示、或は内容その物とまで押上げたのは芭蕉である。芭蕉一人である。(勿論黄では日本画の或物、其他モダーンは含まれて居ない)詩形は、印象を散漫ならしめぬために、至醇な言語を造るために、必ず短小なるべきものだとポー以来繰返した。しかし其事は我々に心配はない。目本の詩形は、短小のうちの最も短小なもので、又至醇なる言語を造ったと云へば芭蕉に如(シ)くは無い。
名所の翁は終始、言葉を消さうと務めた。言葉を消してその上に、白分の気分を雕(え)り付けようとした。言葉を駆使しようとせず圧殺した。夫故、芭蕉は、初めから言葉で自然をたたき潰す暴挙は企てなかったものと見てよい。
言葉を純粋にし、豊富にするといふことは、語彙(ボキャビュラリー)がどうといふことではない。寧ろ言葉を失ふことである。失践さすことである。
写実を重んずる側から、彼があまり部分に偏すると云はれるのは是れがためだ。併し、消えゆく言葉の上に漠然と顕はれる写象は、たとへ写象そのものが部分のやうに見えても、実は全体を最もよく示した内容でなければならない。
俳諧七部集の外に、その青年期の作なぞを併せて見ると、如何に同じ事柄に就てもさまざまな変化をしてゐるかといふことが興味深く感ぜられる。芭蕉の生涯を通じて最も関係の深いものは白然だ。
そして、その白然が最初は芭蕉にとつてもただ一つの対照者であった。対照としてた表面の自然のみが単純に取扱はれたむ厭世的、仏教思想を以て彩ったといふことはあつても、それは一つのボカシであって徹したものではなかった。此時分の旬には、華美な、或は瀟洒(ショウシャ)な、談林の風が染みこんで居る。併しこの自然をただ対照者としてながめ、それに喜怒哀楽を感じ、それを表面から扱ってゐるといふことに、漸く不満を感じだしたのは流石に翁だ。そして、自然と自分との表面の接触でなく、もって確かな、もっと深い物をと渇望してゐる。
即ち談林を去って、自然の奥秘に忍びこまうとして、次第に熱誠となり、真筆となり、洞察観照する気分が起って来た。
この洞察がなければ、詩は遂に最善の境を踏むことは出来なからう。併し洞察そのものは直ちに詩ではない。洞察し観照するといふことは表現の必須条件であっても詩の流動する生きた気分にはならない。芭蕉はただ知性に基いて、覚めた眼を以て自然を眺めたばかりであつたならば、ただ彼は達人の心を持ったばかりであらう。さうして名僧智織と同じく、哲学者の班にも入ったかも知れぬ。
併し芭蕉を冷かな如性からすくったものは、白然に対する彼の願望だ。彼はこの願望を以て、僅に批判から遁がれて、世にも懐しい象徴の詩人となることを得た。
芭蕉には勿論、入禅(エクスタシー)がある。しかし此事は古来から解されて居るやうな気難かしい浅薄な禅意ではない。覚めながらに夢を見る、さうして自然の生命に忍びこむ、深切な象徴である。雪舟の絵と利休の茶とは同じく共通するところはあるであらう。併し雪舟の胆力や寒さとは相違するし、又利休のやうに茶室にをさまることは出来なかった人だ。彼は実に彼自身の大きなところを持って居る。
実際我々が、創意を凝す詩とは何であらうか、科学といふ熔炉(るつぼ)で燻しきって、たとへ新しく鍛へ上げるにしても、一度は生命の鞴輔(ふいご)に翳さなければならぬ。たとへぱ芭蕉の其れのやうに何の思慮も費さず渋滞なく、一個の霊の不思議をやすやす彷彿さすことでなけれぱならぬ。(講談杜刊『目本現代文学全集38』所収)