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設楽原の戦 戦死した武田武将 中学生が戦いを演じる
設楽原の戦 設楽原をまもる会編 一部加筆 戦国時代に、長篠城をめぐる戦いは三回行われましたが、ふつう 「長篠の戦い」という場合は、天正三年(1575)五月の戦いを指します。そしてこの戦いは前の部分の「長篠城の攻防」と、後の部分の「設楽原の決戦」の二つに大きく分けることができます。1、長篠城をめぐる攻防...
View Article初公開 馬場美濃守書状 岡谷衆川中島へ出陣
岡谷衆川中島へ出陣 七人が信玄の感状受領 西堀杜史氏著 この西堀氏の紹介、武田信玄感状の中に、馬場美濃守が奉行した書状が二通ある。その一部は上記書状である。 2、小松筑後守宛書状 今度河中島合戦の砌、敵陣を走廻候条、神妙の働き、依功、国光太刀一振、給之者也。 法性院徳栄軒 武田晴信 武田竜丸朱印 奉行...
View Article武田武将 秋山伯耆守信友
秋山伯耆守信友(諸記ニ名ハ晴近、晴親、マタ氏信為者皆非ナリ、又「水戸義公所撰秋山夫人人碑陰銘」ニ従テ信友ヲ以テ正卜為ス)秋山氏ハ親族部ニ所記秋山太郎光朝ノ後裔世々武田氏附庸ノ豪家ナリ、秋山夫人碑陰銘ニ云、信友ハ秋山新左衝門信任之長男ナリ、「軍鑑ニ天文十五年(1546)挙伯耆守士隊将トス、明年晴信(信玄)伊奈郡ヲ伐ツ、伯耆守ヲ止メ所定ノ地ヲ衛ラシム、弘治二年(1556)伊奈悉ク平キ伯耆守高遠城ニ居ル、...
View Article武田武将 秋山紀伊守
秋山紀伊守 「軍鑑」ニ永禄五年(1562)四郎勝頼へ附属セラル、士隊将八人ノ一員、勝頼時代ノ文書ニハ往々見エタリ、武名アル士ナリ田野ニ殉死ス、法名秋峰道紀居士。秋山民部丞 窪八幡普貿寺ノ旧記ニ天文六年(1537)丁酉、云々御小人善四郎八幡郷御...
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