武田24将 小幡豊後守昌盛
『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著
臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆
又兵衛昌盛は天文三年(1534)生まれで、小畠山城四十四の時の子であった。
天文十八年(1547)、十六歳で初陣をかざり、父山城に及びもつかぬとはいえ、敵将丸山筑前を仕留め、首に筑前の軍配を添えて信玄の首実検に供して賞め言葉をもらうなど、十七の感状をもらっている。
川中島の合戦では、父山城の分まで働き、信玄から山城のごとくせよ、といわれ、采配を許された。
ところが海津城詰めを命じられると、父子二代ということになり、高坂の家来扱いにされかねないのでいやだと言い出した。切腹を覚悟のうえで断ったのだが、実際は高坂を毛嫌いしての主命返上であったという。
結局、信玄麾下の武者奉行として騎馬三、足軽二十人の大将となった。のち小幡上総守の養子となり、小畠を小幡に改めた。
西上野(群馬県)の総横目となり、箕輪(群馬県箕郷町)の城代内藤修理の差し添えとなった。
一剛勇無双の武将として横田十郎兵衛康景と並び称されたが、長篠の合戦では総崩れのため足助(愛知県加茂郡足助町)に後退をよぎなくされ、甲州に飛脚を立て勝頼の指示を受けて甲州に引きあげた。
天正九年(1581)十一月病を得、翌十年(1582)三月六日(十五日とも)に病没した。四十九歳。
折しも勝頼は織田徳川連合軍の攻撃をうけ、三月三日には新府城を捨て、郡内に向かうというドサクサの最中であって、昌盛も体さえ丈夫であってくれれば、と歯咬みして口惜しがったことであろう。
政盛には女一人、男三人の子があり、長男昌忠十九、次男在直十五、三男景憲は十一の少年であった。この子供たちは昌盛が生死の間をさまよっていたため勝頼には従わなかった。
武田滅亡後、次男在直は伊勢にのがれたが、昌忠は七月、景憲は十二月、それぞれ家康に召し抱えの身となった。
景憲はのちの小幡勘兵衛であり、甲州流兵法を編み出したほどの頭脳明敏であった。兵法の原典である『甲陽軍艦』は、景憲が編纂し、弟子らの筆写によって流布本になったと伝えられているが、弟子には山鹿素行などずぐれた人材が多かった。景憲は寛文三年(1663)九十二歳で大往生を遂げている。