飯富兵部少輔虎昌
『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著
臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆
飯富氏は甲斐源氏の一門逸見氏の別れの末裔で、虎昌檀信虎、信玄と二代にわたって仕えた。
天文六年(1536)二月、今川義元と信玄の姉の結婚にからんで不和となった北条氏綱が駿河に進攻、義元の救援に信虎は兵を率いて富士郡愛鷹山の東麓の原野に出張って合戦、氏綱を敗走させたが、虎昌は目覚ましい働きぶりを見せた。
その時点で二十七、八歳であったと伝えるから、信玄より十歳ばかり年長ということになる。
『甲陽軍鑑』によると、天文八年(1539)六月、信虎と北条が虚々実々にいがみ合う間隙をねらい、村上義清と諏訪頼重が呼応して甲斐に軍団を進めた時、虎昌は八百余騎を率いて八ケ岳山麓の念場ケ原(北巨摩郡高根町)から野辺山(信州南佐久郡南牧村)にかけて布陣、村上軍を迎え撃って大暴れの末に敗走させ、首級九十七を挙げたという。
鎧甲はもとより武具一切を赤一色に統一した騎馬兵団が、原野から忽然と出現してまっしぐらに攻撃を仕かけてくるのを見れば、たいがいの雑兵は度胆を抜かれて戦意を喪失したことであろう。
敵方から「飯富の赤備え」、と恐れられたように、戦法も強引で、大敵強敵といえども頭から相手を呑んで攻撃をしかけたが、天文十一年(1542)七月の諏訪攻めでは不覚を取って負傷し、甲府に後送された。疵が完治しないのに十月の伊那攻撃には出陣するといったタフぶりであった。
前年の信虎追放劇を仕組んだ一人であり、何食わぬ顔で板垣と共に信虎を駿府の義元の許に送って行った。信虎も虎昌を心から信じきっていたのだが、信玄もまた虎昌に信頼を寄せていた。
度重なる軍功で、佐久郡の内山城(佐久市)、ついで小諸城(小諸市)の城代をつとめ、永禄四年(1561)九月十日の川中島の決戦では、妻女山攻撃の主力となって働いた。
川中島の決戦には信玄の長男義信も出陣、信玄と同様に二カ所の薄手を負い、陣容立て直しのため、筑摩川の広瀬の渡しを渡るについて、父子の間で先に渡れ、渡らぬ、で言い争いがあったが、兼信勢が寄せてくる気配に、信玄はいち早く川を渡ってしまった。
若い義信は、敵にうしろを見せることはなかったのだ、と信玄のとった行動に対して強い不満を示した。
父子の間に深い溝をつくることになるのだが、永禄五年(1562)六月、信玄は勝頼を諏訪頼重の跡目とし、伊那の郡
代にしたうえで高遠の城詰めを命じ、信玄麾下の将、跡部右衛門尉重政ら八人を付け、甲府を出立させた。
それまで妾腹だと差別していたものを、義信に一言の相談もなく起用、しかも洋々たる家臣を八人までも添えるという偏愛に近い措置に、義信は川中島以来のつもる不満を爆発させた。
一つに父信玄は二十一歳の年、信虎を追い出し、強引に国主に納まったのに、義信が二十五にもなろうというのに、城一つ与えぬばかりか、ないがしにする風さえある。それでは手前勝手ではないか、という不満もあったともいう。
信玄と義信の不仲説は諸説があるが、決定的にしたのは、永禄三年(1560)五月、義元が桶狭間で信長に討たれたことから信玄が、駿河を奪い取ろうとし、これに義信が強く反対したことである。‐
義信の夫人は義元の娘である。従兄弟同士の結婚で義元の跡を継いだのは義弟の氏直であるから、反対し続けたのだ。
『甲陽軍艦』、『甲越軍記』によると、永禄七年(1564)、義信は長坂長閑の子源五郎、曾根周防らとひそかに反逆を企てた。そして飯富兵部に協力を申し入れた。虎昌も容易ならぬ企てに驚いたが、打ち明けられた以上、義信に味方するよりないことになった。
弟の飯富源四郎はいち早くこれを察し、信玄に告げた。義信以下の逮捕によりクーデターは未然に防ぎ得たのである
が、虎昌は、
一、信玄公お若き時分より、兵部お呼びある時、ご返事すぐに申し上げず候こと。
この他四つの罪を問われて翌八年(1565)、切腹させられた。時に五十五、六であったが、この時勘定奉行の古屋惣二郎以下二十数名もクーデターに参画したとして斬首され、義信の家臣は一人残らず甲州から追放された。
表向きはそうであるが、義信から信玄追放の計画を打ち明けられた虎昌は弟の源四郎に言いふくめて内通させ、自ら犠牲になる道を選んだのだという。
信玄は虎昌の死後、源四郎を山県三郎兵衛と改めさせ、虎昌の手勢三百騎のうち五十騎を与えて取り立て、虎昌同様に厚遇したが、「飯富・山県の赤備え」はのちに井伊家の手で復活され、虎昌の勇名もよみがえるのである。