武田24将 多田淡路守満頼(ただあわじのかみみつより)
『武田二十四将抄伝』今川徳三氏著
臨時増刊60/10 歴史と旅 武田信玄総覧 昭和60年刊 一部加筆
多田三八は美濃牢人である。
牢人の字が使われるのは室町時代以後で、それ以前は浪人と当てられたが、仕官の口を求め他国を流浪する侍のことである。
信虎に仕官、足軽大将に取り立てられ、淡路守満願となり、信玄にも仕え、合戦に臨むこと二十九度、身に二十七創を負い、感状を受けること二十九度というから、合戦に出るたびにもらっていたのである。
板垣信形隊に属し、夜襲を得意とした。夜襲は少数精鋭で敵の虚を衝かなければならぬので、数多くの兵卒の中から、特に身体が屈強で身のこなしの軽い者を選んだ。
で、信虎は三八には足軽、雑兵を一番少なく割り当てていた。
『甲陽軍艦』によると、天文九年(1540)の二月、村上義清方の侍大将清野ら四隊三千五百人ばかりが、八ヶ岳山麓の甲州小荒間(北杜市長坂町)まで雪を踏み分けて攻め入り、附近の村落を手当り次第に焼き払って気勢をあげる、という事態が起こった。
注進を受けた信玄はすぐさま甲府を発ち、小荒間に向かった。ところが地理不案内と残雪のため村上軍も進みあぐねているふうである。
前線を偵察して回った三八は、「今夜、夜襲をかけぬと敵は明朝朝早く引きあげるでありましょう」、という。
信玄が何故に、と反問すると、「清野らは前年の海の口の合戦で城を攻め落とされ、義清に不首尾となったので、その面目を回復するための出動で、中州を焼打ちして回ったといえば大義名分も立ち、深入りすれば不利なことが分っているので引きあげるのです」、と答えた。
信玄は三八の意見に従い、その夜八時を期して夜戦を挑んだ。首級百七十二をあげて敗走に追い込み、午前零時には勝間の声をあげたが、地理は心得ているので、雪が少なければもっと首が討ち取れたものを、と三八は豪快に笑い飛ばしたという。
天文十七年(1589)二月、上田原で板垣、甘利が戦死すると板垣隊を離れ、甘利の遺児の藤蔵につくことを命じられた。藤蔵は十五歳であった。
当時、木曾義康と小笠原長時の動きが警戒されていることから、押さえとして下諏訪に甘利藤蔵を、上諏訪には十九歳になる板垣の遺児弥二郎を配置した。
案の如く松本の小笠原勢が動き出したので、三八は藤蔵を先頭に夜襲をかけ、首級九十三をあげるという大手柄を立てた。藤蔵の初陣であり、すべて藤蔵の采配宜しきを得た手柄ということになる。この時、板垣弥二郎にも出陣をうながしたのだが、事態を楽観して腰をあげようとはしなかった。
多田は亡き信形の旧恩に報いるために、弥二郎にも手柄を立てさせてやろうと思っていただけに、失望を禁じ得ず、板垣家の先が案じられると暗い顔をしたという。その通りになってしまったが、三八の豪勇ぶりを伝える話の一つに、虚空蔵山の鬼退治がある。
信玄が上田方面の砦を次々と落とした際、虚空蔵山(上田市上塩尻)の守りを三八に命じた。
すると夜な夜な火車鬼が出現して兵を悩まし、士気が疎漏するという事態になった。
そこである夜、三八が見張っていると、火車鬼が現われたので素早く斬りつけると、「ぎやっ」と悲鳴をあげて闇に消えたが、それ以来ぷっつりと現われなくなった。
火車とは生前悪事を働いた亡者をのせて地獄に運ぶ火焔を放って走る車で、誘導する鬼のことを火車鬼といった。火車鬼と書くと鬼婆のことである。これで三八の勇名は、一躍天下にとどろき渡ったが、傷ついた鬼の方は虚空蔵山から甲州に逃れて来た。そして湯邑(甲府湯村温泉郷)の野天風呂につかって傷の治療に専念したが、鬼が入っている間は濃い霧が覆いかくして、人目にふれさせなかった。傷が癒えて立ち去る際、「われは多田三八に傷つけられし鬼なり」と、言い残したと伝える。
天正三年(1575)五月の長篠の合戦の折、真っ裸で緋緞子の下帯一本で生け捕られた武田武士がいた。一目見た信長があの者は只者ならずと見て、名を名乗らせよ、と命じた。
すると赤裸の武者は傲然と胸を張り、
「美濃の国の住人、多田久蔵なり」と答えた。信長は思わず膝を叩き、伯父が死んだ時、葬式の場で火車鬼を斬ったと評判の豪の者であったか、美濃尾張の者といえばわが家来も同じ、わしに仕えるが良い、と言って、長谷藤五郎に命じ繩を解かせた。すると久蔵は長柄の槍を奪って暴れ出すので、やむなく長谷は斬って捨てた。
三八は永禄六年(1563)十二月、病没しているので、三八と久蔵を同一人物としたのは信長の早とちりだが、久蔵は信蔵が正しく、三八の実子と言われている。