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信玄と父の離別のなぞ、信玄は本当に父信虎を追放したのか

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信玄と父の離別のなぞ、信玄は本当に父信虎を追放したのか
『甲陽軍艦』「品第三」にて検証
 
私は多くのこの関係書を読んできたが、未だに理解できないほど、この信玄の父追放は謎に包まれている。当時の信虎は、ようやく州内外の紛争や戦いを乗り切り、人間としてもその人望まで相当なものであったに違いない。しかし甲陽軍艦やその後の資料は「信玄が追放」と伝える。しかし戦争や紛争に勝つために必要なものは戦力・戦略それに団結力などが必要となる。またそれを支える武器や軍馬や食糧などすべてがあって長期の戦いが可能になる。よく引き合いに出される「妙法寺記」の記録では甲斐に人が生きていては不思議なくらい天災や戦いが繰り返しありすべて記載内容を信じるわけにもいかない。
 また後世の著は信玄を讃えるあまりに、信虎を悪行者に著述してある。しかし誰が同書こうが、その事実を伝える書は見えない。唯一の「甲陽軍艦」は真実を伝えているのであろうか。何筆にもなる「甲陽軍艦」は時には高坂弾正の記が見えるが、それは長坂長閑や跡部への憎しみがにじみ出ている。いずれにしても「甲陽軍艦」の内容は相当な知識博識人物の著したことは間違いない。
 
【信玄、父追放の序奏 不和】
甲州の武田信虎公の秘蔵の鹿毛馬は、足から肩まで四尺八寸八分、その鬣(たてがみ)姿はたとえば、(宇治川の合戦で先陣を争った、あの源頼朝公の生食・摺墨(いげずきするすみ)といった駿馬にもひけをとらないと、近国まできこえた名馬なので、鬼鹿毛と名付けた。跡継ぎの勝千代殿(以下、信玄)がその鬼鹿毛を欲しがった、信虎公は並はずれて悪大将であったので、信玄が、我が子だといっても秘蔵の馬を容易くゆずる気持はまったくなかった。
そうかといって信玄が望みを全く聞かないわけにもいかない。考えた末に、
「お前はまだ若いからこの名馬は似合わない、来年十四歳で元服に達した時に、先祖伝来の義弘の太刀、左文字の刀脇指、そして二十七代までの御旗・楯無の鎧を授けよう、と約束をした。
信玄はそれには同意せずにかさねて馬を所望した。
「楯無はわが甲斐源氏の祖、新羅三郎の鎧、御旗は同様に八幡太郎義家の旗である。太刀、刀、脇指は先祖伝来のものであるから、家督の相続時にいただくべきです。来年のといってもそれまでは半人前なので、それらは今受け継ぐわけにはまいりません。」
「それにひきかえ馬は今より乗り習い、一、二年の間には、どの出陣にもなんとか後陣をつとめたい覚悟で所望いたしましたので、以上のような御意向では、とても承知することはできません」と言われる。
すると信虎公はひとかた在らぬ狂気の人であられたので、おおいに怒って大声をあげておおせられるに、
「家督を譲るも譲らぬもこの胸三寸にあることだ。先祖代代の大切な武田家の宝を譲ろうというのに厭だというならば、弟の信繁を武田家の惣領にする。」
「この父の命令をきかない者は追放するぞ」と。
その時、信玄は
「武田家を離れたり、他の方策を考えても、なまじ父は承諾すまい」と考えて、突如、備前兼光の刀を抜き放ち、使いの者を信虎公のもとへ追い払ってしまった。
そんな折、禅宗曹洞宗の賢者、春巴(しゅんは)和尚が仲裁にはいられたことにより大事にはならなかった。
その後も此の一件のわだかまりはとけず、相変わらず信玄を信虎公は苦しい目に合わせられた。で、家中の多くの人達は皆、勝千代殿を馬鹿にした感じでみていた。勝千代殿はこの軽んじられた表情を承知していたが、一層愚かなそしらぬふりで、落馬して背中に土をつけ汚れた姿で信虎公の前に平気で出られたりした、書も無理に拙くまずく書き、水を浴びても深い所で溺れたり、石や材木の大物を引く場合でも弟の次郎殿は二度引けても、勝千代殿はあっさり諦め一度きりでだめだという風であった。
何もかも弟より劣る人というわけで、信虎公が勝千代殿をそしられるのにならって、家中皆それに同調する気風があった。
【駿河の今川義元公登場】【信玄元服】
そんな中、駿河の今川義元公の肝入りで、信玄は十六歳の三月吉日(一五三六)に元服なされて、信濃守大膳大夫晴信と命ずる旨の勅使が宮中より参った。勅使転法輪三条殿(三条公頼)が甲府へ下向なされ、そのおり勅命をもって三条殿の姫君を晴信へということで、同年七月お輿入れということになった。
 
【信玄初陣と信虎】
その年の十一月は晴信公の初陣であった。敵は海野口といって信濃国に城をもっていた。ここへ信虎公は出陣なさって、敵を追いつめたが城内の兵は多い。平賀の源心法師(須玉町に墓がある・胴塚)という者が加勢に来て籠っている。とりわけ大雪が降って攻めにくく、城はとても落ちそうな気配すらない。
甲州勢はそこで家臣が内々相談して、「城内には三千ほどの人数ということなので我攻(無理押しの攻め)ではまずいということになる。味方の兵もよもや七、八千には達していまい。」
「それに今日はすでに十二月二十六日で暮れもせまった。ひとまず甲州へ帰陣されて、来春攻めてはいかがであろうか。敵も大雪であり、年末であり、追撃するなどということは決して考えられないことですから」
と申しあげると、信虎公は納得して、
「では明日早々に引き返そう」
と決心しておられた。そこへ晴信公が参られて、
「それでは私にしんがり(殿)を仰せつけられたい」
と所望されたのであった。
信虎公はそれをお聞きになって大いに笑い、
「お前は武田家の不名誉になることを申すものだ。敵は追撃はしてこないと戦いの功者が云っているのだ。また例え私がお前にしんがりを申しつけても、長男であるお前は次郎に仰せつけていただきたい、といってこそ惣領というべきなのだ。次郎がお前の立場ならけっしてそのような望みは申し出まい」
とお叱りなされたが、晴信公は聞き入れず強くしんがりを望まれ実現した。
それではということで、信虎公は二十七日の暁に先頭になって軍馬を引かれた。
晴信公は東道甲州方面へ三十里ほどあとの地に残って、いかにも用心したようすで、ようやく三百ばかりの手勢を指揮して、その夜は食を一人あて三人前ほど作って、早々に出発の準備をする。身支度して兵器をそのまま身につけて、馬はよく養い、鞍も置いたままである。寒空なので、明日出発するという時、酒をたしなむ人もそうでない人も酒をふるまい、「夜七ツの時分(午前四時)になったら出かけるつもりだ」と自分で触れてまわった。
家人.召使いも晴信公が深慮なされているとは知らない。
「ほんとうに信虎公が信玄の事を悪く言うのもごもっともだ。この寒天にどうして敵が追撃などしてこようか」 と、部下の人々皆がつぶやくのだった。
さて七ツの時分に出発したのだったが、甲府へは行かずに取って返し、後にしてきた城を攻略し、二十八日の暁にわずか三百あまりの兵力で、あっさり敵城を陥してしまわれた。
城の内では平賀の源心法師が、側近の部下をすでに二十七日には里にかえし、源心だけは一日くつろいで、寒天なので二十八日の昼にでも発とうとのんびりしていた。
他の侍も年越の用意に自分の家に帰り、城に歩武者七、八十人のみであった。
晴信公の軍勢は、源心をはじめとして番兵を五、六十人討ちとり、功名も何のその、
「平賀の源心の首だけをここへ持って参れ」
と命じて前に置か昔、根小屋に火を放ち、あちこち油断していた敵の侍どもを一からげに、二十、三十人と討ち捨てる。他からの加勢の者は村々におって、この度は一日休息してから帰城しようとしていた矢先だったから、なおのこと戦わずに逃げて行くのだった。
その中には剛の武者がかなり居るにはいたけれども、すでに落城し、そのうえ晴信公大将一人とは思わなかった。信虎公が引き返して戦っていると思っているから、一万人におよぶ人数が攻めているのだから何の応戦もできまいというわけで、女子を連れて逃げるのに急で、山の洞谷に落ちて死ぬ有様であった。
まったく晴信公の手柄は古今まれなことだと、他の国の家臣にまで評判がたった。
【平賀源心】
ところでこの平賀源心法師は、非常に剛の兵で、力も七十人力との評判であった。きっと十人力はあっただろう。四尺三寸ばかりの刀を常に所持している大人で、数回の激しい戦いで働いてきた強兵である。これを晴信公は初陣で討ちとり手がらをたてたのだ。これが十六歳の時のことである。
【信玄に対する信虎の姿勢】
ところがこのことも信虎公がいわれるには、城にそのまま居て使者もたてずに城を捨ててきたのは臆病者だと非難されたこともあって、内衆十人のうち八人は晴信公の戦功をほめなかった。時の運だったとし、その上敵方は加勢の者もいなくなり、地元の侍も年とりの用意に城から在所に降りていて、あき城になっていたのだから勝利も当然だと、晴信公の武勲を認める者はすくなかった。
信虎公へのおせじもあって、弟の次郎殿をほめる手前、心では晴信公を讃しながら、口先ではそしるものばかりであった。弟の次郎殿とは、後に典厩信繁と申された人のことだ。
とにかく、晴信公は奇特な不思議な魅力をもつ名人であられた。このような武勲をたてられてもおごる気配もなく、そらとぼけた様子で時々駿河の義元公へ書信を寄せた。次郎殿を惣領にたて、自分を嫡子からはずすと信虎公は申されるが、そのおりは義元公だけが頼りですからよろしく、といろいろお頼み申されたのだ。だから義元公もまた欲をおこし、信虎公は舅にあたるし、自分より前から剛者としてきこえているから、今は甲州一国であるが我が配下にはとてもなりそうにない。だから晴信をとりたてておけば、確実に我らが統治下に入り、そうなれば子息(今川氏真)の代までも旗下に仕えるかたちになるだろうと考えられて、晴信公と組んで信虎公を駿河へ招かれたのだ。
 
そのあと晴信は思いの通りに謀叛をおこして成功なされたわけだが、それには今川義元公の以上のような思惑がはたらいていたのだ。しかしこの謀叛も信玄殿の御工夫が大きくものをいったのである。
信虎公が次郎殿を惣領にたてたいという意図は、重大な手ちがいであったから、先祖の新羅三郎公の御憎しみをうけて、あのように御牢人の身(浪人)になられたのかと思われる。
前車をくつがえすをみて後車のいましめ(前人の失敗は後人の戒め)といわれるように、勝頼公はこれに学び、間違った判断をけっしてなされぬよう申上げる次第です。
さて信玄公の初陣のしるしに、平賀の源心を石地蔵として祭り、今でも大門峠に碑を建ててある。刀は常に館のお弓の番所に「源心の太刀」として置いてある。
【勝頼に対して】
武士はただ剛強なだけでは勝つことができない。勝利がなければ評判をとって有名にはなれぬ。信玄公のなされた業績を手本にたされず、ただやたらと勝利と名声を望まれるから今度の長篠の戦も失敗し、家老衆を多く失ったのである。これは勝頼公の若気のいたりであり、おのおの方の配慮が浅く誤っていたからである。
我らが死んだあかつきには、この書物をどうか御覧になっていただきたい。右のような御父子の事は、信虎公が四十五歳で浪人になられた時のことである。信玄殿は十八歳の時であった。
天正三年六月吉日 高坂弾正

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