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信長公記 武田滅亡

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信長公記
木曾義政忠節の事(信長公記)
◆ 天正10年2月1日
二月朔口、信州、木曾義政御身方の色を立てられ候間、御人数出だされ候様にと、苗木久兵衛、御調略の御使申すに付きて、三位申将信忠卿へ言上のところ、時日を移さず、平野勘右衛門を以て、信長公へ右の趣仰せ上げられ侯。然るところ、境目の御人数出だされ、人質執り固め、其の上、御山馬の旨、上意候。則ち、苗木久兵衛父子、木曾と一手に相はたらき、義政の舎弟上松蔵人、人質として先ず進上候。御祝着ならる。菅屋九右衛門にあづけおかれ侯。(信長公記)
 
◇ 天正10年2月2日
二月二目、武田四郎父子、典厩、木曾謀叛の由丞り、新府今城より馬を出だし、一万五千計にて諏訪の上原に至りて陣を居、諸口の儀、申しつけられ候。(信長公記)
 
◆ 天正10年2月3日
三月三日、信長公諸口に出勢すべきの旨仰せ出だされ、駿河口より、家康公、関東口より、北条氏政、飛蝋口より、金森五郎八大将として相働き、伊奈口、信長公、三位申将信忠卿、二手に分かれて御乱入をなすべき旨、仰せ出だされ候なり。(信長公記)
 
◆ 天正10年2月3日~2月6日
二月三日、三位申将信忠、森勝蔵、団平八、先陣として、尾州・濃州の御人数、木曾口・岩村口両手に至りて出勢力なり。
御敵・伊奈口節所を拘へ・滝ケ沢に要害を構へ・下条伊豆守を入れおき侯ところ、家老下条九兵衛逆心を企て、二月六日、伊豆を立出し、岩村口より、河尻与兵衛の人数引き入れ、御身方仕り候。(信長公記)
 
◆ 天正10年2月12日
ニ月十二日、三位中将信忠卿、御馬を出だされ、其の日は土田に御陣取り、十三日高野(こうの)に御陣を懸けさせられ、十四目に岩村に至りて御渚陣。滝川左近、河尻与兵衛、毛利河内守、水野監物、水野宗兵衛、差し遣はさる。(信長公記)
 
◆ 天正10年2月14日
二月十四日、信州松尾の城主小笠原掃部大輔御忠節仕るべきの旨、申し上ぐるに付きて、妻子(妻子・妻籠)口より、団平八、森勝蔵、先陣として晴南寺口より相働き、木曾峠、打ち越えなしの峠へ御人数打ち上げられ候処、小笠掃部大輔手合せとして所々に煙揚げられ、御敵留の城に星名(保科)弾正楯籠り、拘へがたく存知。
 
◆ 天正10年2月15日
二月十五日、森勝蔵三里計り懸け出し、印田と云ふ所にて退後候は十騎計り討ち止め候ひキ。(信長公記)
 
◆ 天正10年2月16日
二月十六日、御敵今福筑守武者・大将として薮原より鳥居峠へ足軽を出だし候。
木曾の御人数も、苗木久兵衛父子相加へ、なら井(奈良井)坂より懸け上り、鳥居峠にて取り合ひ一戦遂げ、討取りし頚の注文、趣部治部丞、有賀備後守、笠井、笠原、以上頸数四十余り有り。究党の者、討ち捕り候ヘキ。
木曽口御加勢の御人数の事、織田源五、織田、織田孫十郎、稲葉彦六、梶原平次郎、塚本小大膳、水野藤次郎、簗田彦四郎、丹羽勘助、以上、
右の御人数、木曾と一手に鳥居峠を相拘へしたり。御敵場美濃守子息、ふかし(深志・松本城)の城に楯籠り、鳥居峠へ差し向ひ対陣なり。
二位中将信忠卿、岩村より険難節所をこさせられ、平谷に御陣取り。次の日、飯田に至りて御陣を移され、大島に、御敵日向玄徳斎(武田軍)たてこもり物主なり。小原丹後守・正用軒(逍遥軒)のあん中、是等も番手に相加へられ、大島を拘へ候。 
中将信忠卿、御馬寄せせられ候処、運をひらき難く存知、夜中に廃北なす。則ち、三位中将信忠卿、大島に御在城なさる。
玆には、河尻与兵衛、毛利河内入れおかれ、又、御先手飯島へ御移りなり。森勝蔵、団平八、松尾の城主、小笠原掃部大輔、是れ等は先陣仰せつけられ、先々より百姓ども己々(おのれおのれ)か家に火を懸け罷り出で候なり。
子細は、近年、武田四郎、新儀の課役等申しつけ、新関を居え、民百姓の悩尽なく、重罪を期するをば賄を取りて用拾せしめ、かろき科(とが)をば懲(こらしめ)の由申し候て、或ひは張付に懸け、或ひは討たせられ、歎き悲しみ、貴賎上下共に踈果(ウミトハテ)、内心は、信長の御国に仕り度と諸人願ひ存ずる砌に候間、此の時を幸と上下御手合せの御忠節仕り候。然れば、木曾口・伊奈口御陣の様子懇(ねんごろ)に見及び申し上ぐべきの旨、御使として信長公より、智・犬両人、信州御陣へ差し遣はされ、大島まで、三位中将信忠卿御馬寄せられ、異儀なきの趣、帰り言上候。(信長公記)
 
◇ 武田の動向
さる程に、穴山玄蕃、近年遠州口押への手として、駿河国江尻に要害拵(こしら)へ、入れおき候。
今度御忠節仕り候へと上意候処に、則ち御請け申し、甲斐国府中に妻子を人質として置かれ候を、
◇ 天正10年2月25日
二月廿五目、雨夜の紛れに愉出だし、穴山逆心の由承り、館(たち)を拘ふべき存分にて
二月十八目、武田四郎勝頼父子、典厩、諏訪の上原を引き払ひ、新府の館に至りて人数打ち納め侯ひキ。(信長公記)
 
信州高遠の城、中将信忠卿攻めらるゝの事
◆天正10年3月1日
三月朔日、三位中将信忠卿、飯島より御人数を出だされ、天龍川乗り越され、貝沼原に御人数立てられ、松尾ノ城主小笠原掃部大輔を案内者として、河尻与兵衛、毛利河内守、団平八、森勝蔵、足軽に御先へ遣はさる。
中将信忠卿は御ほろの衆十人ばかり召し列れ、仁科五郎楯籠り候高遠の城、川よりこなた高山へ懸け上げさせられ、御敵城の振舞の様子御見下墨(さげすみ)なされ、其の日はかいぬま原に御陣取。高遠の城は三方さがしき山城にて、うしろは尾続きあり。城の麓、西より北へ富士川(?天竜川)たぎつて流れ、城の拵へ殊に大夫なり。在所へ入口三町ばかりの間、下は大河、上は大山そわつたひ、一騎打ち節所の道なり。川下に浅瀬あり。爰を松尾の小笠原掃部大輔案内者にで、夜の間に、森勝蔵、団平八、河尻与兵衛、毛利河内、これらの衆乗り渡し、大手の口川向ひへ、取り詰め候。星名(保科)弾正飯田の城主にて候。彼の城退出の後、高遠城へ楯籠る。爰にて城中に火を懸け、御忠節仕るべきの趣、松尾掃部かたまで夜中に申し来たり候へども、申し上ぐべき透もなく、
◆天正10年3月2日
三月二目、払暁に、御人数寄せられ、中将信忠卿は尾続を搦め手の口へ坂りよせられ、大手の口、森勝蔵、団平八、毛利河内、河尻与兵衛、松尾掃部大輔、此の口へ切りて出で、数刻相戦ひ、数多討ち取り侯間、残党逃げ入るなり。か様候とごろ、中将信忠御自身、御道具を持たれ先を争つて塀際へつけられ、柵を引き破り、塀の上へあがらせられ、一旦に乗り入るべきの旨、御下知の間、我劣らじと、御小姓衆・御馬廻城内へ乗り入り、大手搦手より、込み入れ込み立てられ、火花を散らし相戦ひ、各疵つけられ討死算を乱すに異らず。歴々の上子供いちいちに引き寄せく差し殺し、切つて出で、働く事、申すに及ばず。爰に、諏訪勝右衛門女房刀を抜き切って廻し、比類なき働き、前代未聞の次第なり。又、十五、六のうつくしき若衆一人、弓を持ち、台所のつまりにて余多射倒し、矢数射尽し、後には刀を抜き切りてまいり、討死、手負、死人、上を下へと員を知らず。討捕る頸の注文。
仁科五郎、原隼人、春日河内守、渡辺金大夫、畑野源左衛門、飛志越後守、神林十兵衛、今福叉左衛門、小山田備中守(是は仁科五郎脇大将にて候たり)、小山田大学、小幡因播守、小幡五郎兵衛、小幡清左衛門、諏訪勝右衛門、飯島小太郎、今福筑前守、以上頸数四百余あり。
仁科五郎が頸、信長公へもたせ、御進上候。今度、三位中将信忠卿、険難、節所をこさせられ東国に於いて強物と其の隠れなき武田四郎に打ち向かひ、名城の高遠の城、鹿目と究竟(くっきょう)の侍ども入れおき、相拘へ候を、一且に乗り入れ、攻め破り、東国、西国の誉れを取る。信長の御代を御相続、代次の御名誉、後胤の亀鏡(きけい・証拠)に備へらるべきものなり。(信長公記)
 
◆天正10年3月3日
三月三日、中将信忠卿、上の諏訪表に至って、御馬を出され、所々放火。
そもそも、当杜諏訪大明神は・日本無双の霊験、殊勝七不思儀、神秘の明神なり。神殿を初め奉り、諸伽藍悉く一時の煙となされ、御威光、是非なき題目なり。
関東あん中大島を退出す。従つて叉、諏訪の池はづれに、高島とて、小城あり。是れへ楯籠り、拘へ難く存知、当城も津田源三郎へ相渡し罷り退く。木曾口烏居峠の御人数もふかし表に至りて打ち出で、相働き候なり。
御敵城ふかし城、馬場美濃守相抱え、居城なりがく存知・降参申す。織田源五へ相渡し、退散候ふなり。(信長公記)
 
家康公駿河口より御乱入の事
家康公、穴山玄蕃(信君)を案内者として召し列れ、駿河の河口より甲斐国文殊堂の麓市川口へ御乱入。(信長公記)
 
武田四郎甲州新府退散の事
武田四郎勝頼、高遠の城にて先づ相拘へらる士と存知せられ候ところ、思ひの外、早速相果て、既に、三位中将信忠、新府へ御取り懸け候由、取々申すにつきて、新府在地の上下一門、家老の衆、軍の行は、一切これなく、面々足軽・子供引越し候に取り紛れ、廃忘致し、取る物も取り敢へず四郎勝頼幡本に人数一勢もこれなし。
爰より典厩引き別れ、信州佐久の郡小諸に楯籠り、一先、相拘ふべき覚悟にて、下曾根を頼み、小諸へのがれ候。四郎勝頼攻め、一仁に罷りなる。
◇天正10年3月3日
三月三目、卯の刻、新府の館に火を懸け、世上の人質余多これありしを、焼き籠にして罷り退かる。人質、瞳(どっ)と泣き悲しむ声、天に轟くばかりにて、哀れなる有様、申すもなかなか愚かなり。
去る年、十二月廿四目に、古府より新府今城勝頼簾中一門移徒(わたまし)の砌は、金銀を鏤め、輿車.馬鞍美々しくして、隣国の諸侍に騎馬をうたせ、崇敬斜ならざる見物なり。群集栄花を誇り、常は簾中深く仮にも人にまみゆる事なく、いつきかしづき、寵愛せられし上臈達、幾程もなく引き替ヘて、勝頼の御前、同そば上臈高畠のおあひ、勝頼の伯母大方、信玄末子のむすめ、信虎、京上薦のむすめ、此の外、一門親類の上臈の付きく等、弐百余人の其の中に馬乗り廿騎には過ぐべからず。
歴々の上臈子共踏み差らはぬ山道を、かちはだしにて、足は紅に染みて、落人の哀れさ、中々目も当てられぬ次第なり。名残りしくも、住み馴れし古府をば、所に見て、直ちに小山田を頼み、勝沼と申す山中より、「こがつこ」(?)と申す山賀へのがれ候。漸く、小山田が館程近くなりしところに、内々、肯じ候て、呼び寄する。爰にて、無情無下に撞堕(つきおとし)、拘へがたきの由申し来たり、上下の者、はたと、十万を失ひ、難儀なり。新府を出で候時、侍分、五、六百も候ひキ。路次すがら引き散らし、遁ざる者、纏か四十一人になるなり。田子と云ふ所の平屋敷に暫時の柵を付け、居陣候て、足を休まれ候。 
左を見、右を見るに、余多の女房達、我れ一人を便として、歴々とこれあり。我身ながらも、詮議区為方(せんかた)なし。 
さるほどに、人を誅伐する事、思ひながらも、小身業に叶はず、国主に生るゝ人は、他国を奪取せんと欲するに依りて、人数を殺す事、常の習ひなり。信虎、信玄より勝頼まで、三代、人を殺す事数千人と云ひ員を知らず。世間の盛衰時節の転変、間髪を容るゝを捍(ふせ)ぐべくもあらず。因果歴然、此の節なり。天を恨まず、人を尤もとせず、闇より闇道に迷ひ、苦より苦境に沈む。哀れなる勝頼かな。
 
信長公御乱入の事
◆ 天正10年3月5日
三月五日、信長公隣国の御人数を召し列れられ、御動座。其の目は江州の内、柏原が上菩提院に御泊り。翌目、仁科五郎が頸もたせ参り候を、ろくの渡りにて御覧じ、岐阜へ持たされ、長良の河原に懸けおかれ、上下の見物仕り候。
◆ 天正10年3月7日
七日雨降り、岐阜に御逗留。
三月七日、三位中将信忠卿、上の諏訪春甲府塁りて御入国、秦蔵人私宅に御陣を居えさせられ、
武田四郎勝頼一門、親類、家老の者尋ね捜して悉く御成敗、生害の衆、
一条右衛門大輔、清野美作守、朝比奈摂津守、諏訪越中守、武田上総介・今福筑前守・小山田出羽守、正用(逍遥)軒、山懸三郎兵衛子、隆(竜)宝、是れはおせうどう事なり。此等皆、御成敗候なり。
織田源三郎、団平八、森勝蔵、足軽衆に仰せつけられ、上野国表へ差し遣はされ侯ところ・小幡、人質進上申し、別条これなし。駿・甲・信・上野四ケ国の諸侍、有縁をもって、帰りの御礼、門前市をなすなり。
◆ 天正10年3月7日~11日
三月八日、信長公、岐阜より犬山まで御成り。音金山御泊り。十日高野御陣取、十一日岩村に至りて、信長卿着陣。
 
武田四郎父子生害の事
◇ 天正10年3月11日
三月十一日、武田郎父子簾中一門、「こがっこの山中」(?)へ引籠らるるの由、滝川左近承り、険難・節所の山中へ分け入り、相尋ねられ候ところに、田子(田野)と云ふ所、平屋敷に暫時柵を付け、居陣候。則ち、先陣、滝川儀大夫、篠岡平右衛門に下知を申しつけ、取り巻き侯ところ、遁れがたく存知せられ、誠に花を折りたる如く、さもうつくしき歴々の上臈、子供、いちいちに、引き寄せひきよせ、四十余人さし殺し、其の外、ちりぢりに罷りなり、切りて出で、討死候。
武田四郎勝頼若衆土屋右衛門尉、弓を努て、さしつめ引きつめ、散くに矢数射尽し、能き武者余多射倒し、追腹仕り、高名比類なき働なり。武田太郎齢十六歳、さすが歴々の事なれぱ、容顔美麗、膚は白雪の如く、うつくしき事余人に勝、見る人、あつと感しつつ、心を懸けぬはなかりけれ。会者定離のかなしさは、老いたるを跡に残し、若きが先立つ世の習ひ、朝顔のタベをまたぬ、唯、蜻蛉の化(あだ)なる命なり。是れ又、家の名を惜しみ、おとなしくも、切りてまはり、手前の高名、名誉なり。
歴々討死相伴の衆、武田四郎勝頼、武田太郎信勝、長坂釣竿、秋山紀伊守、小原下総守、小原丹後守、跡部尾張守、同息、安部加賀守、土屋右衛門尉、りんがく長老、中にも比類なき働きなり。以上、四十一人侍分。五十人上臈達女の分。
◇ 天正10年3月11日
三月十一日、巳の刻、各相伴、討死なり。四郎父子の頸、滝川左近かたより、三位中将信忠卿へ御目に懸けられ候のところに、関可平次・桑原助六両人にもたせ、信長公へ御進め候。
 
越中富山の城、神保越中居城謀飯の事
◆ 天正10年3月11日
さる程に、越中国富山の城に、神保越中守居城侯。然るに今度、信長公御父子、信州表に至りて御動座候のところ、武田四郎節所を拘へ一戦を遂げ、悉く討ち果し候の間、此の競ひに越中国も一揆蜂起せしめ、其の国存分に申しつけ候へと、有り有りと越中へ偽申し遣はし候事、実に心得、小島六郎左衛門、加老戸式部両人、一揆大将に罷りなり、神保越中を城内へ押し籠め、三月十一日、富山の城居取りに仕り、近辺に煙を挙げ候ひて、時目を移さず、柴田修理亮、佐次内蔵介、前田叉左衛門、佐久間玄蕃頭、此等の衆として冨山の一揆の城取り巻き候間、落去幾程
もあるべからざるの旨、注進申し上げられ候。
 
武田一族の頚・武田典厩生害、下曾彌忠節の事
御返書の趣、武田四郎勝頼、武田太郎信勝、武田典厩、小山田、長坂釣竿を初めとして、家老の者悉く討ち果たし、駿・甲・信滞りなく一篇に仰せつけられ候間、機遣(きづかい)あるべからず候。飛脚見及び候間、申し達すべく候。其の表の事、是叉存分にたすべき事勿論なり。
三月十三日
柴田修理亮殿・佐々内蔵介殿・前田又左衛門殿・不破彦三殿
 
三月十三日
信長公、岩村より彌羽根まで御陣を移さる。
三月十四日
平谷を打ち越え、越なみあひに御陣坂り、爰にて、武田四郎父子の頸、関与兵衛、桑原介六、もたせ参り、御目に懸けられ候。則ち、矢部善七郎に、仰せつけられ、飯田へ持たせ遣はさる。
三月十五日
午の刻より雨つよく降り、
其の日、飯田に御陣を懸けさせられ、四郎父子の頸、飯田に懸けおかれ、上下見物候。
三月十六日
御逗留。信州さくの郡小諾に、下曾根覚雲軒楯籠り侯。武田典魔、下そねを頼み、纏廿騎ばかりにて罷り越され候。肯申(うけこい)二の丸まで呼び入れ、無情心を替へ、とり巻き、既に家に火を懸け候。
典厩が若衆に朝比奈弥四郎とて候ひキ。今度、討死を究め、上原在陣の時、諏訪の要明寺の長老を道師に、み戒をたもち、道号をつけ候て頸に懸け、最後に切つて廻り、典厩を介錯し、追腹仕り、名誉、是非なき題目なり。典厩の頼みし姪女智百井と申す仁、是れも一所に腹を仕り、侍分十一人生害させ、典厩の頸、御忠節として、下曾根持ち来たり、進上仕り候。則ち、長谷川与次にもたせ参る。
三月十六日
飯田御逗留の時、典厩の首、信長公へ御目に懸けられ侯。仁科五郎乗り候秘蔵の葦毛馬馬、武田四郎乗馬大鹿毛、是れ又、進められ候ところ、大鹿毛は、三位中将信忠卿へ参らせられ、武田四郎勝頼最後にさゝれたる刀、滝川左近かたより、信長公へ上申され候。使に、祇候の稲田九蔵に御小袖下され、悉き次第なり。
武田四郎、同太郎、武田典厩、仁科五郎四人の首、長谷川宗仁に仰せつけられ、京都へ上せ、獄門に懸けらるべきの由候て、御上京候なり。
三月十七日
信長公、飯田より大島を御通りなされ、飯島に至りて御陣取り。
三月十八日
信長公高遠の城に御陣を懸けらる。
三月十九日
上の諏訪湖に御居陣・諸手の御陣取り段々に仰せつけられ候ひしなり。
 
木曾義政出仕の事
 
三月廿日
木曾義政、出仕申され、御馬ニツ進上。申次、菅屋九右衛門、当座の御奏者滝川左近、御腰物梨地蒔、金具所焼付け、地ぼり、目貫、梗築は十二神、後藤源四郎ほりなり。
拝びに、黄金百枚、新知分信州の内二郡下され、御縁まで御送りなされ、冥加の至りなり。
三月廿日
晩に、穴山梅雪、御礼、御馬進上。御脇指、梨地蒔、金具所焼付け、地ぼりなり。
御小刀、御つかまでなし地まき似相申すの由、御詑なさる。さげさや、ひうち袋つけさせ、下され、御領中仰せつけられ候ひキ。松尾掃部大輔、御礼駮(まだら)の御馬進上。御意相、御秘蔵候なり。
今度忠節比類たきの旨、上意にて、本知安堵の御朱印、矢部善七郎、森乱、両人御使にて、下され、忝き次第なり。
三月廿一日
北条氏政より、端山と申す者、使者にて、御馬、拝びに、江川の御酒、白島、色次進上。滝川左近御取次。
 
滝川左近、上野国拝領の事
三月廿三日
滝川左近召し寄せられ、上野国、ならびに、信州の内二郡下され候。年罷り寄り、遠国へ遣はされ候事、痛くおぼしめされ候と雖も、関東八州の御警固を申しつけ、老後の覚えに上野に在国仕り、東国の儀御取次、彼れ是れしつくべきの間、上意、忝(かたじけな)くも御秘蔵のゑびか毛の御馬下さる。此の御馬に乗り候て、入国仕り候へと、御諚。都郡の面目、此の節なり。
 
諸卒に御扶持米下さるゝの事
三月廿四日
各在陣致し、兵糠など迷惑仕るべきの旨、仰せ出だされ、菅屋九郎右衛門、御奉行として御着到つけさせられ、諸卒の人数に随つて、御扶持米、信州ふかしにて渡し下され、忝なき次第なり。
 
諸勢帰陣の事
三月廿五日
上野国、小幡、甲府へ参り、三位中将信忠卿へ帰参の御礼申し上げ、滝川左近、同道申し、御暇下され、帰国候なり。
三月廿六日
北条氏政より御馬の飼料として八木(米)千俵、諏訪まで持ち届け、進上候なり。
三位中将信忠卿、今度、高遠の名城攻め落し、御手柄御褒美として、梨地蒔御腰物参られ候。
天下の儀も御与奪ならるべき旨、仰せらる。
三月二十八日
東国御隙入る儀も御座なきにつきて、右の御礼として、三月二十八目、三位中将信忠卿、甲府より諏訪まで御馬を納めらる。
今日以外に時雨、風ありて、寒じたる事、大形ならず。人余多寒死候ひキ。
信長公は諏訪より富士の根かたを御見物なされ、駿河・遠江へ御廻り候て、御帰洛なすべきの間、諸卒是れより帰し申し、頭々ばかり御伴仕り候へと仰せ出だされ、御人数、諏訪より御暇下さる。
三月二十九日
木曾口、伊奈口思ひ思ひ帰陣侯昔。
 
御国わりの事
三月廿九目、御知行割仰せ出だされ、次第。
     甲斐国、河尻与兵衛へ下さる。但し穴山本知分これを除く。
▽ 駿河国、家康卿へ、
▽ 上野国、滝川左近へ下さる。
▽ 信濃国 タカイ、ミノチ、サラシナ、ハジナ、四郡、林勝蔵へ下さる。
▽ 川中島表在城、今度励(はげしき)先陣粉骨につきて、御褒美として、仰せつけられ、而目の至りなり。
▽ 同キソ谷、二郡、木曾本知、
▽ アツミ、ツカマ、二郡、木曾新知に下され
▽ 同伊奈一郡、毛利河内へ下さる。
▽ 諏訪一郡、河尻、穴山替地に下さる。
▽ チイサカタ、サクニ郡、滝川左近へ下さる。
以下十二郡
 
    岩村、団平八、今度粉骨につきて、下さる。
    金山よなだ島、森乱へ下さる。是れは勝蔵、忝き次第なり。
 
国掟甲州、信州
一、関役所、同駒口、取るべからざるの事。
一、百姓前、本年貢外、非分の儀、申し懸くべからざる事。
一、忠節人立て置く外、廉(かど)がましき侍生害させ、或ひは追失すべき事。
一、公事等の儀・能々念を入れ、穿鑿せしめ落すべき事。
一、国諸侍に懇ろに扱ひ、さすが由断なき様、気遣ひすべき事。
一、第一慾を構ふにつきて書人不足たるの条、内儀相続にをひては、皆次に支配せしめ人数を拘ふべき事。
一、本国より奉公望の者これあるは相改たまへ拘へ候ものゝかたへ相届け、其の上において、扶持すべきの事。
一、城々晋請丈夫にすべきの事。
一、鉄炮・玉薬・兵糧蓄ふべきの事。
一、進退の郡内、請取道を作るべき事。
一、堺目入組、少々領中を論ずるの間、悪の儀、これあるべからざるの事。
 
右定めの外、悪き扱ひにおいては、罷り上り、直訴訟申し上ぐべく候なり。
天正十年三月 日
 
信長公、御帰陣
信長公、御帰陣の間は、信州諏訪に、三位中将信忠卿置き申され、甲州より、富士の根かたを仰覧じ、駿河・遠江へ御まはり候て、御帰洛あるべきの旨、上意候て、
四月二日
雨降り時雨候。兼日仰せ出ださるにつきて、諏訪より大ケ原(山梨県北杜市白州町台ケ原)に至りて御陣を移され、御座所の御普請、御間叶以下、滝川左近将監に申しつけ、上下数百人の御小屋懸けおき、御馳走斜ならず。
北条氏政、武蔵野にて追鳥狩仕り候て、雑の鳥数五百余進上候。
則ち、菅屋九右衛門、矢部善七郎、福富平左衛門、長谷川竹、堀久太郎、五人御奉行にて、御馬廻衆召し寄せら
れ、御着到つけさせられ、遠国の珍物拝領、御威光有りがたき次第なり。
 
四月三日
大ケ原(山梨県北杜市白州町台ケ原)御立ちなされ、五町ばかり御出で候へば、山あひより名山、是れぞと見えし富士の山、光々と雪つもり、誠に殊勝、面白き有様、各見物、耳星驚かし申すなり。
勝頼居城の甲州新府城跡を御覧じ、是れより古府に至りて御参陣。
武田信玄館に、三位中将信忠卿御普請大夫に仰せつけられ、仮の御殿美々しく相構へ、信長公御居陣候ひキ。
爰にて、惟住五郎左衛門、堀久太郎、多賀新左衛門、御暇下され、くさ津へ湯治仕り候なり。
 
恵林寺御成敗の事
さる程に、今度恵林寺において、佐女木次郎隠しおくにつきて、其の過怠として、三位中将信忠卿に仰せつけられ、恵林寺僧衆御成敗の御奉行人、織田九郎次郎、長谷川与次、関十郎衛門、赤座七郎右衛門、以上。右奉行衆罷り越し、寺中老若を残さず・山門へ呼びよせ、廊門より山門へ籠草をつませ、火をつけられ候。初めは黒煙立ちて見えわかず。次第次第に煙納まき上、人の形見ゆるところに、快川長老は、ちともさはがず、座に直りたる儘、動かず。其の外、老若、児、若衆、踊り上り、飛び上り、互ひに抱つき、もだへ焦がれ・焦熱・大焦熱の焔に咽び、火血刀の苦を悲しむ有様、目も当てられず。長老分十一人果たされ候。
其の中存知の分、宝泉寺の雪岑長老、東光寺の藍田長老、高山の長禅寺の長老、大覚和筒長老、長円寺長老、快川長老。中にも快川長老(紹喜)、是れは、隠れなき覚えの僧なり。これによつて、去年、内裡にて、忝くも、円常国姉と御補任頂戴申され、近代国師号を賜はる事、規模なり。都鄙の面目これに過ぐべからず。
 
四月三日
恵林寺破滅。老若上下百五十余人焼き殺されおわんぬ。所々にて御成敗の衆、諏訪刑.部、諏訪采女、だみね、長篠、是れ等は百姓どもとして、生害させ、頸を進上、則ち御褒美なされ、黄金下され候ひしなり。是れを見る者、先次まで名ある程の者尋ね捜して、頸を持ち参りキ。
 
信州川中島表、森勝蔵働ぎの事
天正10年4月
四月五日
森勝蔵、川中島、海津に在城致し、稲葉彦六、飯山に張陣候処、一揆蜂起せしめ飯山を取り巻くの由注進候。
則ち稲葉碧衛門、稲葉刑部、稲葉彦一、国枝、是等を御加勢として飯山へさし遣はされ、三位中将信忠卿より、団平八、是叉差し越さるに、御敵山中へ引籠り、大蔵の古城拵へ、いも川と云ふ者一揆致し、大将楯籠る。
四月七日
御敵長沼。一八千ばかりにて相働き候。則ち、森勝蔵懸けつけ、見合せ、どうと切り懸かり、七、八里の間、追討にて、千弐百余討ち捕り、大蔵の古城にて女童千余切り捨てつる。
 以上、頸数二千四百五十余あり。此の式に候間、飯山取り詰め候人数、勿論、引き払ひ、飯山請け取り、森勝蔵人数入れ置き、稲葉彦六、御本陣諏訪へ帰陣。稲葉勘右衛門、稲葉刑部、稲葉彦一、国枝、江州安土へ帰陣仕り、右の趣、言上なり。
森勝蔵山中へ日々、相働き、所々の人質取り固め、百姓ども還住申しつけられ、粉骨、是非なき様躰なり。
 

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