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武田信玄、恵林寺での葬儀 武田滅亡

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恵林寺での葬儀
(「武田信玄の生涯」『別冊歴史読本』)昭和62年)新人物往来社
 
信玄の死を契機として、畿内の信長包囲網も瓦解していった。
●信長  天正元年8月
将軍義昭が追放された翌月、天正元年八月には越前の朝倉義景と近江の浅丼長政とがあいついで本拠を信長に攻められ、ともに滅亡した。
近畿周辺の反信長勢力で残ったのは、肩山本願寺を頂点とする一向一揆だけであり、とりわけ伊勢長島の一向衆は根強く信長に低抗した。
○勝頼  天正元年7月14日
一方、信玄亡き後の武田領国は、四男勝頼が継承し、三年秘喪の遺命により、表向きは信玄が病気中のため隠居ということにし、正式に家督相続をしている。その経過ははっきりしないが、七月十四日には、北条氏政が長延寺師慶に宛てた書状の中で勝頼が家督を継いだので、攻守同盟の誓詞を交換したと伝えているし(「秋山吉次郎氏所蔵文書」)
○勝頼  天正元年8月19日
八月十九日には勝頼自身が高野山の成慶院に対して、家督相続の祝儀の礼状を出している。
 
     周辺の諸大名は信玄の死の情報を得たものの、対外的には勝頼が秘喪の擬装を続けたので、半信半疑であった。 
●家康 そのため当面の最大の敵であった徳川家康は、信玄の死の真偽を確かめるため、五月に駿河へ攻め入り、さらに東三河へ侵入し、九月には長篠城を攻めている。
○勝頼 天正元年9月8日
勝頼は九月八日、在陣中の真田信綱に(天正二~四年)対して遠州の武田勢を二俣城に集め、長篠城を救援するよう指令したと伝えており(「真田文書」)、さらに東三河衆に続友と謀反者が出ているとの報告をうけ、長篠城在番衆に城内の用心を厳重にするよう指令している。
しかし、そのかいなく九月八日、長篠城は家康に奪還され、武田方は三河から後退した。この家康の一連の動きに対して、勝頼が出陣した形跡はみられない。おそらく服褒中ということで、行軍を自重していたのであろう。
○勝頼 天正元年9月21日
九月二十一日付の甲斐二宮神社宛の分国昇平の願文では、自らを「重服深厚之族」といつている。
○勝頼 天正元年11月
十一月に入ると勝頼は行動を起こし、まず分国中に二十二ヵ条の軍役定書を発して出陣命令を出し、十一月四日には、下野の佐野房綱に対して遠江へ出兵して浜松近辺に放火したこと、久能城・懸川城(静岡県掛川市)を攻めていることなどを通報した(『甲斐国志』)
●謙信 天正2年(1574)
上杉謙信も武田領の西上野へ出兵の動きをみせ、同盟者である信長・家康に同時に武田領への侵入を呼びかけている(「榊原家文書」)
○勝頼 天正2年(1574)1月
それに対して一月末、勝頼は東美濃へ出兵し、信長方の岩村城(妓阜県恵那郡岩村町)を攻め、その属城十八を落とし、さらに明知城(恵那郡明智町)を攻めて、二月七日には落城させた。
○勝頼 天正2年(1574)3月6日
三月六日には、諸国を流浪ののち、信州高遠に戻っていた祖父信虎が死去したとの知らせをうけ、岩村田龍雲寺の北高全祝禅師を甲府へ呼び、大泉寺での葬儀の執行を依頼している。
天正2年(1574)5月~6月18日
五月初旬、勝頼は遠江へ出兵し、同二十三日付の江尻城(清水市)主穴山信君宛の書状によれば、高天神城(静岡県小笠郡)主小笠原長忠の要求にこたえて誓詞を書き、領地なども安堵する亡伝えており(「桜林文書」)
『信長公記』によると六月十八日、高天神城は開城したという。
●信長 この頃、信長は三度めの長島一向衆攻めを敢行しており、今回は、総攻撃を加えて根絶やしにする勢いであった。
○勝頼 天正2年(1574)7月5日
勝頼のもとへも顕証寺から緩軍要請があり、七月五日付の武田信豊書状によれば、援軍に赴いた種村兵部丞の在陣をねぎらっている(「福正寺文書」)
●信長 しかし九月末には長島は陥落し、信長は膝下の宿敵を排除した。
○勝頼 天正2年(1574)8月~10月
八月末には勝頼自身が長島後詰めと称して再度遠江へ出陣しており、十月に小笠郡の諸士の知行を安堵している。
 
○勝頼 天正3年(1575)3月
翌天正三年の初めは目立った動きがみられないが、三月末になると、上野の安中景繁に諏訪上原域(長野県茅野市)へ参陣を命じた
り、四月十三日には、やはり上州箕輪城(群馬郡)の内藤昌豊に参陣を命じ、二十日には勝頼自身が甲府を出陣すると伝えている(「信州古文書」)。そして五月六日、三河長篠に着陣し、諸士に十三ヶ条の陣中定書を示し、長篠城を包囲した。
● 家康は信長に援軍を求め、十八日に長篠城南方の設楽原に着陣した。
○ 天正3年(1575)3月
●○ 両は五月二十一日に設楽原で対戦し、勝頼は大敗。して宿将の多くを失った。
 
天正3年(1575)8月~11月
●家康 この戦いののち、家康は一気に遠江の武田方を攻め、八月には諏訪原域(静岡県榛原郡)、二俣城(天竜市)、光明寺山城などが落城した。
●信長 信長も美濃岩村城を攻め、十一月二十一日に陥落させている。
 
○勝頼 天正3年(1575)12月
十二月に入って、勝頼は再起のための三河出動命令を出し、「当家興亡の一戦」に臨むつもりだったが、翌天正
四年正月六日の春日昌信宛書状によれば、ト筮(ぼくぜい)の結果とりやめたといっている(「宝月氏所蔵文書」)
 
父信玄の葬儀
○勝頼 天正3年(1575)4月12日~26日
そして、父信玄の三ヵ年秘喪が終わった四月十二日、領内に喪を発し、十六日を期して葬儀を行なうことにした。
葬儀の模様は、その場所となった恵林寺で書きとめた「天正玄公仏事法語」と、参列した御宿監物の書状に詳しい。それによれば、葬儀の前日、信玄の遺骸を納めていた塗籠を開いたところ、玉体は崩れて彩らず、壼中に座していたという。そして当日は一門をはじめ僧侶千余人が参列し、盛大をきわめた葬儀が執り行なわれており、四月二十六日までには七周忌の法要まで済ませている。
 
武田氏滅亡
天正5年(1577)
○勝頼 天正5年(1577)1月22日
勝頼は北条氏政の妹を正室として迎えた。「北条系図」によれば氏康の末子で、当時十四歳であったという。
これは長篠の戦いで大敗した勝頼が、その後、徳川家康に遠江を侵略され、さらに西上野で上杉謙信の攻勢に直面し、どうしても北条氏との関係を強化しておく必要があったからである。
 
天正6年(1578)
○勝頼 天正6年(1578)3月13日~6月上旬
〔御館の乱〕
越後春日山城中で上杉謙信が病死すると、その家督の座をめぐって養子景虎と景勝との争いが起こり、勝頼もこの越後の内乱(御館の乱)に巻き込まれていった。
五月二十九日、勝頼は北条氏政の要請によって、景虎に援軍を送ることになり、武田信豊を信越国境に派遣した。
六月上旬、景勝側から和睦の申し入れがあり、信豊の斡旋で勝頼もそれを承諾し、誓詞を交わすことになった。
○勝頼 天正6年(1578)6月22日~12月
勝頼は信濃海津城(長野市)を出発して越後へ向かい、府内(上越市)に滞在して景虎・景勝間の和議調停に尽力した。
しかし調停は進まず、勝頼は八月二十八日に甲府へ帰陣した。府内滞陣中から景勝側の勝頼への働きかけは積極
的で、贈答品や同盟の条件などが示されていた。
十二月ころまでに両者の盟約は整い、景勝側の示した条件は、勝頼の妹を妻に迎えること、上州の割譲、黄金を贈るというもので、勝頼にとって一方的な好条件であった。
 
天正7年(1579)
○勝頼 天正7年3月24日
天正七年三月二十四日、御館の乱は景虎の自害によって終結し、景勝が正式に上杉の家督を継承することになった。景勝は盟約に従って沼田・厩橋など東上野を勝頼に渡し、十月二十日には勝頼の妹の御菊御料人を越後に迎えている。
●氏政  天正7年9月5日
こうした勝頼の動きに対して、景虎の実兄北条氏政は甲相同盟の破棄を決意し、九月五日には家康に書状を送って、駿遠の武田領の挟撃を要請している。
    勝頼
 こうして勝頼は東上野と駿豆国境で氏政と争うことになり、さらに家康の遠江侵攻も激しく、にわかに軍役が増していった。
七月、勝頼は上野へ出兵して厩橋城へ入り、武田信豊に広木城を攻めさせ、
九月には駿河に出陣して黄瀬川で氏政軍と対戦している。いずれも決戦にはならなかったが、状況は元亀二年末の甲相同盟成立以前の構図に戻ってしまった。
 
天正8年(1580)
○勝頼 天正8年3月
翌天正八年に入ると北条氏政との対立は一層緊迫したものになり、三月には勝頼も駿河浮島ケ原へ出陣し、氏政の水軍と伊豆三島の重須沖で対戦した。この戦いは武田水軍の活躍で勝頼有利のうちに終結した。
 
●家康 天正8年8月・9月
氏政の要請によって遠江へ侵入してきた家康は、武田方の拠点であった高天神城(静岡県小笠郡)を攻め、さらに進んで駿河に入り、田中城(藤枝市)をも攻撃した。
八月から九月にかけても北条・徳川の連携した出兵があり、
○勝頼 天正8年9月28日
駿河へ出陣して、伊豆戸倉で氏政と対戦したのち、急いで沼津城の修築を進めている。家康軍に包囲されていた高天神城からは、勝頼のもとに援軍要請があり、九月二十八日、江尻城(清水市)主の穴山信君が向かったが、途中で敗れて退いた。
●信長
この年閏三月には、信玄以来、武田氏と同盟し、信長に対抗していた大坂の石山本願寺が、ついに信長に屈して講和を結び、本拠を開け渡すことになった。
○勝頼
これによって勝頼の外交策も変更を余儀なくされ、中国の毛利輝元らと連絡をとって進めてきた信長包囲網は崩れ、逆に信長の武田領への侵攻が迫った。
●信長
信長はこのころから木曾氏に働きかけて勝頼からの離反を誘っているし、穴山信君も家康の内応交渉に心を動かしはじめたようである。
○勝頼
しかし上州では真田昌幸の活躍によって武田方が優位を保っていた。六月十八日、昌幸は沼田城(沼田市)を開城させ、利根郡・吾妻郡を完全に押さえていた。十月には勝頼も上州に出陣し、膳の城を攻め落としている。
 
天正9年(1581)
○勝頼
天正九年に入り、勝頼は領国維持の危機感から、新たに防衛のための築城を決し、正月、韮崎の北、七里岩の要害に新府城建設の着工をした。
普請奉行は真田昌幸が担当し、分国中の郷村から家十間につき人足一人を徴収し、軍役衆には人足の糧米を割り当てた。
●家康
三月二十二日、ついに高天神城は落城し、家康は勢いにのって駿府近くまで侵入している。
●氏政
これに呼応して氏政も駿豆国境に出陣し、武田方と対戦した。十一月十日には、同盟者の上杉景勝に書を送って、新府城普請成就の祝品の礼をのべ、あわせて近日中に新城へ移転する予定であったが、氏政方の伊豆戸倉城主笠原新六郎らが武田方へ帰属したので、その仕置のために出陣して遅れていると伝えている(「上杉家文書」)
○勝頼
十二月二十四日、勝頼は新府城へ移り、新年を迎えた。
 
天正10年(1582)
○勝頼
天正十年正月二十五日、まず木曾義昌が離反し、勝頼がその討伐に向かう。
●信長
信長の先陣として長男信忠が木曾救援のため出馬、二月十四日には伊那へ入った。
○勝頼
勝頼は鳥居峠(木曾郡木祖村)で木曾勢に敗れ諏訪へ後退し、三月二日に高遠域が落城すると新府城へ帰り、翌日、自ら城に火をかけて一族とともに小山田信茂の郡内領へ落ちのびようとした。
ところが、信茂に笹子峠で行手をはばまれ、日川沿いを遡って田野(山梨県東山梨郡大和村)へ至った十一日、織田方と周辺の地下人に前後から攻められて一族とともに自害し、武田家は滅亡した。

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