寺町百庵
寺町百庵は素堂の一族の出身であると『俳文学大辞典』などにも記載がある。百庵は元禄八年(1695)の生まれである。百庵の考証は中野三敏氏の「寺町百庵の前半生、享保の俳諧」に譲り、諸書に紹介されている略歴を記すと、姓は寺町、名は三知(智)また友三 、幕府御茶坊主で御坊主組頭を務め俸禄百俵二人扶持で、矢の倉に住んでいたが百庵の号のごとく住所を転々としたとする書もある。俳諧や和歌それに故実に精通して道阿・梅仁斎・不二山人・己百庵・新柳亭など号した。唇子言満の狂名や越智百庵とも称した。寛保元年(1741)冬、過ちがあって転役となり、翌春より時守を勤め後小普請入り、宝暦六年(1756)致任して買閑の身となった。俳諧は二世青峨門と云うが、一世青峨門とも素堂門とも云う。儒者の成島道筑と交わり、権門富豪の取り巻きも努めた。殊に紀伊国屋文左衛門の幇間俳人の一人として、吉原での小粒金の豆撒きをした折の。撒き手の一人だった話は有名であるが、年代が合わないとも思える。後の住処は石町の鐘楼に隣接していたとか伝わるが、浅草待乳山に草庵を構えて、不二山人と号した。
御坊主組頭を努めただけあって故実考証に造詣が深く、連歌師、歌学者でもあったが、一説には転役の原因を幕府連歌方への運動工作にあったという。著書も多く『花葉集』・『梅花林叢漫談』・『林叢余談』・『楓考』・『蕨微考』・『花月弁』・『芭蕉考』などがある。その他の話題も多いがここでは省く。天明六年(1786)2月27日に没した92才の長寿であった。素堂の家系についても『連俳睦百韻』の序文中で『甲斐国志』とはかけ離れた記載内容を述べている。後世の研究者は都合よく両書を継ぎ合わせて素堂の生涯にして「素堂誤伝」を生み出しているが、両書の記載内容は全く異質であり、結びつかない内容である。
ここで素堂の後継者についての記述のある、百庵の『毫の秋』を見る。この書は百庵の愛児一周忌の追善集で四十二才の時であり、序文中で自分の生い立ちを語っている。百庵の父は三貞といって、幕府に勤めていた。この『毫の秋』に寄せた素堂嫡孫山口素安の文がある。百庵にとっても素堂にとっても重要な文である。
寺町百庵は素堂の一族の出身であると『俳文学大辞典』などにも記載がある。百庵は元禄八年(1695)の生まれである。百庵の考証は中野三敏氏の「寺町百庵の前半生、享保の俳諧」に譲り、諸書に紹介されている略歴を記すと、姓は寺町、名は三知(智)また友三 、幕府御茶坊主で御坊主組頭を務め俸禄百俵二人扶持で、矢の倉に住んでいたが百庵の号のごとく住所を転々としたとする書もある。俳諧や和歌それに故実に精通して道阿・梅仁斎・不二山人・己百庵・新柳亭など号した。唇子言満の狂名や越智百庵とも称した。寛保元年(1741)冬、過ちがあって転役となり、翌春より時守を勤め後小普請入り、宝暦六年(1756)致任して買閑の身となった。俳諧は二世青峨門と云うが、一世青峨門とも素堂門とも云う。儒者の成島道筑と交わり、権門富豪の取り巻きも努めた。殊に紀伊国屋文左衛門の幇間俳人の一人として、吉原での小粒金の豆撒きをした折の。撒き手の一人だった話は有名であるが、年代が合わないとも思える。後の住処は石町の鐘楼に隣接していたとか伝わるが、浅草待乳山に草庵を構えて、不二山人と号した。
御坊主組頭を努めただけあって故実考証に造詣が深く、連歌師、歌学者でもあったが、一説には転役の原因を幕府連歌方への運動工作にあったという。著書も多く『花葉集』・『梅花林叢漫談』・『林叢余談』・『楓考』・『蕨微考』・『花月弁』・『芭蕉考』などがある。その他の話題も多いがここでは省く。天明六年(1786)2月27日に没した92才の長寿であった。素堂の家系についても『連俳睦百韻』の序文中で『甲斐国志』とはかけ離れた記載内容を述べている。後世の研究者は都合よく両書を継ぎ合わせて素堂の生涯にして「素堂誤伝」を生み出しているが、両書の記載内容は全く異質であり、結びつかない内容である。
ここで素堂の後継者についての記述のある、百庵の『毫の秋』を見る。この書は百庵の愛児一周忌の追善集で四十二才の時であり、序文中で自分の生い立ちを語っている。百庵の父は三貞といって、幕府に勤めていた。この『毫の秋』に寄せた素堂嫡孫山口素安の文がある。百庵にとっても素堂にとっても重要な文である。