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北杜市文学講座 山口素堂 門人とされる黒露・馬光・素丸

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馬光と素丸
  馬光は『葛飾正統系図』によれば、二世其日庵を名乗り初名を素丸といった。俗称は長谷川半左衛門・藤原直行。名を白芹と云い、素堂の門に入り絢堂素丸と改め、後に其日庵二世の主となり、『五色墨』や『百番句合』を著した。
 絢堂素丸は二代目で葛飾蕉門では三代目の総師になっているが、これは素堂を初代とするからである。初代素丸は始め誰に師事したかは判明しないが白芹と云い、素堂の社中となってから絢堂素丸と改め、後に馬光と称した。その門人二代目白芹が統を継いで二代目素丸となった。仮説を逞しくすれば、その素丸が馬光と同胞であった子光の追悼句を贈ったのではないだろうか。
 子光の『素堂句集』序文には素堂の性格や思惑態度が書かれている。
・素堂は聞き分ける力や記憶力が優れていて、
・数多く詠んだ詩歌和文らの作品はみ な己の胸中に秘めて全て覚えている。
・人が紙と硯を添えて句や文を請えば、すぐに筆書を与える。
・左のごとき草稿(『芭蕉庵再建勧化簿』)はここに写して高位高官の人は
・これを召し、好事者は最も鐘愛する。招かれるとそれに従い宿することは数日から~十日にも及ぶ。然るに人や待遇によって勿体振ったり別け隔てる考えはなく、誰彼とも話し合いしかもその内容については口を閉ざし、人に説く話は固く他言はしない……


黒露と馬光
 
 二人は一才違いで馬光が一才上である。二人とも素堂の周辺で活動し素堂の教えを受けながら俳諧修業に入ったのは宝永年間であると思われ、句の作風も同じような傾向を示している。ここに判る範囲で句集や入集句を比べてみる。

○宝永6年(1709)素堂68才。
黒露…『紫竹杖』無倫編。入集。(雁山)
馬光…『菊の塵』園女編。入集。(素堂序文)

○正徳4年(1714)素堂73才。
黒露…
馬光…『二の切れ』湖十編。入集。

○正徳5年(1715)素堂74才。
黒露…
馬光…『芋の子』玉全編。入集。

○享保1年(1716)素堂逝去。

○享保2年(1717)素堂没後。
黒露…(雁山)『通天橋』雁山編。
馬光…(素丸)『通天橋』入集。『百寿草』沾徳編。入集。

○享保3年(1718)
黒露…『成九十三回忌』朝叟編。入集。
馬光…

○享保4年(1719)
黒露…上洛する。『阿女』祇空編。『花月六百韻』入集。
馬光…(素丸)『花林燭』文露編。入集。

○享保5年(1720)
黒露…(雁山)『やすらい花』祇空編。入集。
馬光…(素丸)「沾徳点俳諧帖」椿子舎興行。入集

○享保7年(1722)
黒露…(雁山)『今の月日』潭北編。入集。
馬光…(素丸)『その影』(素堂七回忌追善)素丸編。

○享保8年(1723)
黒露…(雁山)『晋子(其角)十七回忌』淡々主催。『俳諧ふた昔』一漁編。入集。
   『ひろ葉』捨翠編。入集。『そのはしら』貞佐編。入集。『月の鶴』湖十編。入集。
   『野あかり』雨橘編。入集。『百千万』雁山編。『嵐雪十七回忌集』百里編。入集。

馬光…(素丸)『その影』素丸編。『晋子(其角)十七回忌』淡々主催。『俳諧ふた昔』
   一漁編。入集。『ひろ葉』捨翠編。入集。『そのはしら』貞佐編。入集。
   『秋風七回忌』文露編。入集。『百千万』雁山編。入集。

○享保9年(1724)
黒露…(雁山)『長水吟行百韻』長水編。入集。
馬光…(素丸 『ふたもとの花』露月編。入集。『五重軒月次』・『染ちらし』露月編。
   入集。

○享保10年(1725)
黒露…(雁山)『百千万』沾州編。
馬光…(素丸)

○享保11年(1726)
黒露…(雁山)『代々蚕』歌仙。貞佐編。入集。
馬光…(素丸)『俳諧春の水』千魚編。入集。『代々蚕』歌仙。貞佐編。入集。
   『白字録下』沾州編。

○享保12年(1727)
黒露…(雁山)『閏の梅』露月編。入集。
馬光…(素丸)『俳諧宮遷表』露月編。入集。
(『とくとくの句合』百里跋。素堂十三回忌追善集か。

○享保14年(1729)
黒露…(雁山)『花坦籠』歌仙、常陽編。入集。
馬光…(素丸)『花坦籠』歌仙、常陽編。入集。

○享保15年(1730)
黒露…六月駿河宇津山に雁山の墓(現存)を建てる。これ以後、黒露と称す。
馬光…

○享保16年(1731)
黒露…
馬光…(素丸)『五色墨』風葉(宗端)編。入集。

○享保18年(1733)
黒露…
馬光…(素丸)『百番句合』宗端編。敬雨跋。入集。

○享保19年(1734)
黒露…伊勢の乙由を尋ねる。
馬光…(素丸)『紀行俳諧二十歌仙』淡々編。入集。『俳諧二十集』露月編。入集。

○享保20年(1735)
黒露…(黒露)『とくとくの句合』祇空編。五人組歌仙二巻付。(歌仙は前年のもの)
馬光…(素丸)『とくとくの句合』祇空編。五人組歌仙二巻付。(歌仙は前年のもの)
   『次の月』歌仙。和橋編。入集。『大和記事』歌仙。講古編。入集。

○元文元年(1736)
黒露…(黒露)甲斐、稲中庵で宗端と興行。『燈火三吟』黒露編。
  …甲斐より江戸に戻る。
馬光…(素丸)甲斐、稲中庵で宗端と興行。『燈火三吟』黒露編。入集。
   『霜なし月』歌仙。桃里編。入集。

○元文2年(1737)
黒露…(黒露)『有渡日記』黒露編。
馬光…(馬光)『有渡日記』馬光跋。歳旦に立机する。『島山紀行』百韻。岑水編。入集。

○元文4年(1738)
黒露…(黒露)『するが百韻』黒露編。
馬光…(馬光)『跡の錦』歌仙。入集。

○元文5年(1739)
黒露…(黒露)『すずり沢紀行』黒露編。付興行。
馬光…(馬光・白芹)『すずり沢紀行』黒露編。付興行。入集。

○寛保3年(1743)
黒露…(黒露)『芭蕉林』朶雲編。馬光主催。黒露序。
馬光…(白芹)『芭蕉林』朶雲編。馬光主催。黒露序。

○延享元年(1744)
黒露…(黒露)『老山集』黒露編。宗端との両吟。
馬光…(白芹)『老山集』黒露編。発句の号に白芹・馬光。

○延享3年(1746)
黒露…(黒露)『寝言』黒露編。
馬光…(馬光)『寝言』黒露編。入集。『三十二番句合』柳里恭編。馬光判詞。

○延享4年(1747)
黒露…(黒露)『いつも正月』黒露編。
馬光…(馬光)

○寛延元年(1748)
黒露…(黒露)
馬光…(馬光)『戊辰試豪』馬光編。

○寛延2年(1749)
黒露…(黒露)『素堂三十三回忌』黒露編。『職人尽俳諧集』寥和編。入集。
馬光…(馬光)『素堂三十三回忌』黒露編。入集。

○寛延4年(1751)
黒露…(黒露)『つゆ六歌仙』大梅編。独吟歌仙。
馬光…(馬光)5月1日没。68才。

○宝暦2年(1752)
黒露…(黒露)『睦百韻』佐々木来雪編。黒露小序。馬光追善『松のひびき』黒露編。

 以上、大まかな対照表を作成してみたが、馬光を筆頭とする葛飾派の動きは黒露の動とほぼ一致することが理解できる。やはり葛飾派としては黒露が素堂社中の筆頭人との認識を持っていたようである。黒露や馬光にしても番年の素堂の影響を強く受けており、其角・嵐雪・沾徳など素堂の指導や影響を受けた俳人の周辺に在ったと考えられ、黒露は馬光の没する寛延4年までは付かず離れずの状態にあったと思われる。黒露の作風は享保期の十年(1725)近い間に、俗に云う支麦派という伊勢美濃系の影響を受けていることは、諸氏の指摘されているところであり、馬光も五色墨運動の後徐々に影響されていったように思われる。
 また宗端らと沾州の争いに馬光らが巻き込まれたかは不明であるが、享保19年(1735)の沾州編『俳諧友あぐら』に素丸名で取られていて、素丸は両派の争いの当て馬にされたようである。
 黒露は立机したのかは不明であるが、馬光は元文元年(1736)の桃里歌仙『雪なし月』では素丸であり、同年8月の黒露編『燈下三吟』の歌仙で麦阿と共に馬光が三吟を巻いているから、この年の辺りで立机しているのであろう。因に麦阿は長水の事で享保18年(1733)に麦林門に入った。馬光の『歳旦帖』は「元文二丁巳歳旦」が初出。次いで延享2年(1745)に門人の白芹に絢堂素丸名を譲り、同四年(1747)致任して剃髪し泥山と号した。ついでながら前掲の対照表に寛保2年(1742)の珪淋追善『蓮社燈』(晩牛編)、寛延元年(1741)の珪淋追善『万燈供』(番牛偏)・延享元年(1744)の宗端追善『翌(あした)たのむ』に出句しているが、寛保2年(1742)の柳居(麦阿)追善『扶桑三景集』には名が見えず、この頃から柳居門との交流が跡絶えたのではないだろうか。
 余談ではあるが、葛飾派には二つの秘書(伝書)があると云い、馬光に伝えられた『俳諧大意弁』(享保16年書写)と二世素丸の『乞食袋』(延享3年成)が存在していた。




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