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信玄弔のこと

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信玄弔のこと
『甲陽軍艦』品第五十一「甲州味方衆の心替わり」
(『甲陽軍艦』原本現代訳 発行者 高森圭介氏)
小田原の北条氏政より、信玄公は御他界かとその真偽を見届けるために、坂美岡(板部岡)江雪をさLむけてきた。
武田の家老は申し合わせて一計を案じ、江雪をしばらく引き留めて適当にもてなし、そのあと夜に入ってから逍遥軒を信
玄だと申して御対面の場を設け、八百枚の紙にしるしおいた御判の中から、いかにも不出来な御書判をえらんでそれに御返事を書いて江雪に渡した。
さすがに賢い江雪もそれを信じて小田原へ帰り、信玄公は御在世だと氏政へ報告申し上げたから、御他界のうわさは聞かれなかった。
小田原の北条家はそのようだったけれども、三河の先方衆の中で、奥平父子(貞能とその子九八郎)の挙動があやしく裏切りの気配があるため、誓紙により確かめを命じ、さらに九八郎の奥方を人質にとった。それを信長が知って、家康の聟に九八郎を(家康の女、亀姫を妻にする)ということで、信長がとりもったので、奥平父子は逆心というかたちになった。そのため人質の奥平九八郎女房は、勝頼公によって磔礫刑にかげられたのだ。奥平は、長篠の城にたてこもることになった。
◇◇
天正三年乙亥四月十二日に信玄公の御弔がおこなわれた。
宗旨は禅宗関山派、本寺は京都妙心寺である。その東堂衆で以下七仏事ということでおこなわれた。その次第は鎖龕(さがん・お棺を寝室から法堂に移す式)は藍田和尚(甲府東光寺)、掛真(無き高僧の掛け軸を掛けるは東谷和尚(駿河臨済寺)、起龕(出棺のときの読経の式)は説山和尚(甲府円光院)、念誦は圭首座、葬衆は噋首座、奠茶は速伝和尚(伊那開善寺)、奠湯は高山和尚(甲府長善寺)、導師は快川和尚(恵林寺)だったといわれる(品第四)。その道中は六間の広さにして、道の両側には虎落(もがり)を結い、稲莚を敷き、その上に布を敷き、さらに絹を敷いて、勝頼公、典厩、穴山殿、仁科殿、葛山殿)、望月殿、逍遥軒、そのほか御親類衆が御竈()に手をかけて御供なされた。御位牌は御曹司の信勝がお持ちになり、その時九歳だったが御供していかれた。
ほかに侍大将衆、直参衆が御供する。又被官衆は虎落の外でお見送りした。東堂達がなされた儀の中では、長禅寺の高山和尚の奠湯をよく覚えているのであるが、ともかく以上記し置く。
一服反魂死諸葛 作竜呑却尽扶桑。
一服の箕湯で魂はよみがえり、
死せる諸葛孔明、
生ける仲達を走らすといった故事のように、
竜となって日本国中を制圧する。
右の葬儀のあと、勝頼公は出発たされて諏訪明神へ御社参なされたが、そのとき御鑓が折れた。続いてそれから高遠の城へ到着たされるおりも、堅固な橋が折れて、御供の小人衆が一人死んだ。勝頼公は御馬のあしらいが上手であられたから、蹴立てて逃れた。御馬の後の左足が、橋の崩れかかったところであやうくとまったので無事だったから、やはり運がお強くめでたいことだ、と言う者もあれば、こんな堅固た橋が崩れるなんて、物怪(もののけ)につかれたような無気味なことだとつぶやく者もいた。以上。
 
天正元年四月、信玄公は御他界。
天正元年四月、信玄公は御他界となった。その年の秋、勝頼公は二十八歳で遠州へ進攻していた。草履取、二十人そこそこの中の小者十五人が挾竹を持ち、軍の後方に従っていたところ、敵方の馬乗が三騎襲って草履取りを一人斬った。ところが残りの十四人が馬乗を一人討ちおとし搦とってタ暮れに金谷(榛原)に着いて、この生捕った敵を報告いたした。
武田勢は五十騎も六十騎もその後から進軍していたから、それほどの手柄というわけではなかったけれども、本隊と離れたところで、しかも懸川(掛川)と久能との間の敵の領分の中でこのようであったのも、よくよく勝頼公の御先鋒赤強かったからである。これとても信玄公の威力の蓄積があるからである。馬場美濃・内藤修理・山県三郎兵衛・高坂弾正といった各巧者衆の批判は、武田の軍カがすでに頂上に達している証拠で、大いに危いことだというのである。
こういう意見も、ひとえに大敗ということの兆しだというので、ことのほか侍大将衆が悔んで語ったわけだが、後になって現実となったのであった。

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