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信虎・信玄随伴「高白斎日記」

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信虎・信玄随伴「高白斎日記」
明応七戊午年(1498)~天文二十二癸丑年(1553
 
 
○明応七戊午年(1498
正月六日、信虎公誕生。
同六月十一日、大地震。
 
○明応八己未年(1499
朝鮮より一切経渡る。
 
○明応九庚申年(1500
九月二十八日、主上(後土御門天皇)崩御(御年五十九)
 
○明応十幸酉年(1501
二月二十七日、栗原式部大輔騎馬二百騎之を預かる。
 
○文亀二壬戌年(1502
七月、将軍(足利)義高公名を義澄と改める。
 
○文亀三庚亥年(1503
夏大早。
 
○永正元甲子年(1504
十月、上杉(山内)顕定と上杉(扇谷)朝良合戦。
〈注〉九月、両上杉は武蔵立川に括いて合戦。山内顕定は鉢形城に、扇谷朝良は河越城に拠った。
 
○永正二乙丑年(1505
九月十六日、傑山(武田信昌)死去。
〈注〉①武田信守の子。寛正六年、ときの守護代跡部上野介景家の横暴をにくみ、兵を挙して景家を謙している。五十九歳で没した。
 
○永正三丙寅年(1506
・両上杉和睦。
 
○永正四丁卯年(1507
二月十四日、孚山(武田信縄)死去。(武田信昌の子。従四位下左京大夫陸奥守。)
六月二十四日、紬川政元遭害。
 
○永正五戊辰年(1508
十月四日、油川彦八郎(武田信恵)と四郎(縄美)生害。
〈注〉信恵は信昌の子。信縄の弟。四郎も信縄の弟。信虎年少で家督したのを快しとせず、惣領家に抗し曾根勝山の城に拠ったが戦死。
 
○永正六己巳年(1509
十月二十三日、小尾弥十郎江岬城を乗っ取る。
 
○永正七庚午年(1510
八月七日、大地震。
 
○永正八幸未年(1511
八月、前将軍源義澄江州岳山にて逝去。
 
○永正九壬申年(1512
(輿か)
大内介義口船岡山(山城国)の軍功を賞して従三位
に叙す。
○永正十癸酋年(1513
三月、義ヂ(足利義植)江州合戦に於て敗軍。
 
○永正十一甲戌年(1514
一条前関白冬良票ず。
 
○永正十二乙亥年(1515
四月十日、積翠寺(要害山麓の古寺)の客殿柱立つ。
同五月二十四日、残らず柱立ち、並びに棟上げ。
 
○永正十三丙子年(1516
七月、北条(長氏"早雲)、三浦(義同)の城(新井城)を攻め取る。三浦道寸討死。
九月二十八日、扇山(恵林寺の北の仙)破れ、之に依り信虎公恵林寺へ御引き籠る。翌月、御帰陣。
 
○永正十四丁丑年(1517
七月十三日、暴雨洪水。
 
○永正十五戊實年(1518
天下飢饉、餓死。
 
○永正十六己卯年(1519
五月二十七日、小田原に至る。
八月、北条早雲死
八月十五日、新府中(麟鰯ヶ崎の館)御鍬立て初む。
八月十六日、信虎公御見分。
八月十二月二十日
庚辰、信虎公府中へ御屋移り。
 
○永正十七庚辰年(1520
三月十八日、三沢(現下部町)の宗香(未詳)、甲府に於て万部の経を初める。
三月晦日戊午巳刻、宗本地香夢 本地・空虚・水和蔵。
六月十日丙虎、今諏訪合戦(大井氏との合戦)、是より逸見西郡滅却。
晦日丙戌、積翠寺丸山を御城に取り立てられ普請はじまる。
六月朔日丁亥、信虎公丸山(要害山)の城に御登り。香積寺(現甲府市.臨済宗済白寺末)に下さる。
十五日、七月節(立秋)
 
○大永元幸巳年(1521823日改元
正月二十七日、正法寺悉皆御判形を下さる。
三月二十五日、将軍義稙京都に没落する。
八月十日己丑申刻、昌頼(未詳)丸山の城主に仰せ付けられる。
九月、久島(福島)の脚事。
十六日乙丑亥刻、富田落城(現甲西町.城址不詳)。弓刻、御前御城へ御登り。
十月十六日丁未、飯田(現甲府市)に於いて合戦御勝利。
◎十一月三日幸亥戌刻、晴信公誕生。墓目を曾根三河守縄長相勤む。
十日戊午、敵駿河衆勝山(現中道町.城址あり)へ移る。
二士二日幸未酉刻、上条河原(現敷島村・荒川の河原)に於いて御合戦。駿河福島衆(福島兵庫助正成の人数)数多討ち捕り為される。
◎二十七日乙亥、積翠寺より御曹司殿(太郎晴信)初めて府中へ御下り。
 
○大永二壬午年(1522
正月朔日立春(正月節)
正月十四日乙未、富田に蹲る駿河衆除かる。
註 上条河原の戦い(前年十一月二十三日)で敗れた駿河衆が富田(戸田)に籠り越年していたが、
一月十四日、身命を乞うて帰国した。
八月十日甲申、正法寺(金剛山正法寺)に初めて行く。
八月十一日、観音寺(法城山観音寺・臨済宗妙心寺末)に下される。
十六日、三沢の宗香遷化。
 
○大永三癸未年(1523
正月十二日甲寅、立春。
正月、観音寺へ初めて行く。
四月大幸丑、義稙公莞ず。
十六日節。
二十四日、湯の島(湯村山)の山城御普請はじまる。
五月小十三日、水神のホクヲ()、城に立つ。
◇六月小十日己酉、信虎公善光寺(信濃国)へ御参詣。
◎十二月三日己亥、晴信公御袴着。
 
○大永四甲申年(1524
正月二十四日節。二月七日壬寅、信虎公凍橋(現大月市)へ御出陣。
註〉『妙法寺記』に「大永四年、此年正月より陣立て初めて二月十一日、国中勢一万八千立て猿橋に御陣にて日女に御働候、奥三方へはたらき、やいくさ(箭軍)あり此時分乗房(上杉憲房)は、八十里御陣よせと承り候。」と、ある。
四月小三日戊戌、庫院の柱立つ。
四月四日、小庫院柱立つ。
四月十四日、信虎公御移徒なされ、五貫下される。
六月小十六日、一条(一蓮寺)小山(現甲府城坦)御普請はじまる。
七月小甲子二十日、信虎公関東へ御出陣。岩村攻め(現岩槻市。上杉朝輿を援けて、信虎は北条氏綱勢と戦った。)。
八月大朔日、癸巳節。
 
○大永五乙酉年(1525
正月小幸酉。
十二月大甲寅。
十二月二十八日壬午、信虎公御出。未刻、報恩寺(不詳)下さる。
 
○大永六丙戌年(1526
正月小朔日乙酉、万森(現山梨市)西の方へ、新三郎(未詳)越す。
正月十七日二月節。
二月大十三日丙寅、山水作り初める。
二月十八旦二月節(晴明)
三月大幸巳。
四月七日、帝(後柏原天皇)崩御。
四月二十七日、本一条を小山原へ引き、新一条道場の柱立て。五月大乙巳午刻、一条道場(一蓮寺)の棟挙げ。
六月二十三日、今川氏親死す。
七月大壬午二日、報恩寺門前の者共、御普請御赦免。
七月二十八日、羽黒(現甲府市)の彦右衛門林、たちきられ候。
八月小壬子二十三日節。
九月大幸巳十六日丙申、内匠又四郎(未詳)の子、出仕。
十月小幸亥五乙卯午未刻・駒井(現韮崎市)五百貫、昌頼に下さる。
十月八日戊午、昌頼駒井へ打ち入る。
十八日戊辰、大蔵峯へ御出陣。
 
○大永七丁亥年(1527
御奈良 立春去月二十六日。正月二十五日幸亥、上条の地蔵堂(現甲府市・稲積国母地蔵)取り立てる可きとて、南宮(古府中の地名)の西の地形平普請初まる。
二月小朔日乙酉二日、小田切落城。
二月十八日、報恩寺の堂建つ。
二月二十七日乙亥、堂の棟上げ。
二月二十八日、矢野分御代官仰せ付けらる。
四月小戊申節(立夏)
四月二十日丁卯。
五月大丁丑節。
五月十八日甲午、岩殿(現大月市)の橋掛かる。
六月小二日節辛亥。信虎公御出で在り魚鳥を取る。
◇七月大丙子八日、信虎公善光寺へ御参詣。
◇七月十七日、御下向。
七月十九日甲午、上条の地蔵、府中へ御移り。
八月三日節戊申、地蔵仏殿の柱一本立ち初める。
八月三日、身延山大堂柱立つ。
九月小五日、徳林遷化。
十月大六日、仏殿の右の方柱ニカワ立つ。
十二大月甲辰七日小寒入り。
 
○大永八戌子年(1528)享禄元年(88日改元)
正月小甲丑八日立春。
 
○享禄二已丑年(1529
正月小戊戌。
 
○享禄三庚寅年(1530
正月大壬辰。
 
○享禄四幸卯年(1531
正月小丁亥六月、三好海雲等、細川澄元が子晴元を大将として、細川高国と摂州尼崎に於いて合戦、高国敗軍自殺す。
 
○享禄五壬辰年・天文元年(1532729日改元)
正月大庚戌。
 
○天文二癸巳年(1533
正月大甲辰四日立春。
 
○天文三甲午年(1534
正月小己亥。春より夏まで、疫病人多く死す。
 
○天文四乙未年(1535
正月小癸亥。
 
○天文五丙申年(1536
正月大丁巳七日立春。
二月、御即位。
◎三月、武田晴信公元服。十六歳。義晴の講の晴の字を賜う。
三月十七日今川氏照(輝)、同彦五郎同時に死す(氏照二十四歳)
同五月二十四日夜、氏照の老母(中御門大納言宣胤の娘)、福島越前守宿所へ行き、花蔵(遍照寺住職良真)と同心して、翌二十五日未明より駿府に於いて戦い、夜中、福島党久能へ引き籠る。
六月十四日、花蔵生害(自殺)
 
○天文六丁酉年(1537
正月大幸巳。
 
○天文七戊戌年(1538
正月小丙子。北条氏康が上杉憲政、上杉朝定と武州河越にて合戦。氏康勝利す。
《註》河越合戦については『甲陽軍鑑』に天文七年とあり、他の諸録はおゝむね天文六年とある。
 
○天文八己亥年(1539
正月大庚午。
 
○天文九庚子年(1540
正月大甲午。春夏大疫、人多く死す。
 
○天文十年辛丑念(1541
正月大戊子。
正月二日、立春。
二月大戊午。
三月小戊子。
四月大丁巳。
四月四、日立夏(四月節)
五月二十五日、海野平(海野棟綱)破る。村上義清、諏訪頼重両将出陣。
《註》信虎は諏訪、村上両将とともに信州海野平に棟綱を攻めた。棟綱は破れて上州へ逃げ、関東管領の上杉憲政をたよった。
六月小丙辰十四日己巳、信虎公甲府を御立、駿府へ御越。今年に至り御帰国無く候(後の書込みか)。甲府に於いて十六日各々存じ候。
六月二十八日癸未、天恩日(最上吉日)。三・吉日也。御家督御祝儀の御酌湿井丹波守(未詳)
七月大乙酉七日立秋(七月節)
八月小己卯十一日大風、禁中殿門多く吹き倒す。
九月小甲申。
十月大癸丑。
十一月大癸未二十六日冬至。
十二月小癸未
十二日小寒。
二十七日大寒(十二月節)
 
○天文十一壬寅年(1542
正月大朔日壬午。
正月十三日立春。
二月九日、定奉行衆はじまる。
二十四日乙亥午刻御勢調。
三月大朔日幸亥
三月十五日四月節(立夏)。上諏訪に向け御出馬。朝曇り細雨。大井の森(現長坂町)御陣所。湿井人衆も高白(駒井高白斎)に同心仕り候。
三月二十九日、(御射山)原御陣所。鶉取り候て御調美。
七月己酉、土峯(長峰・現茅野市東部・八ケ岳西麓)御出陣所。諏訪の方、雲黒く赤し。
七月三日、桑原(現諏訪市、高島の南東)へ押詰める。風雨。
七月四日、桑原城を攻め頼重を生け捕る。酉刻、各陣所へ帰る。
七月五日、頼重甲府へ遣わさる。申刻着府。
七月九日屋形様
御帰府。十三日、諏訪大祝へ御預け。
七月十八日八月節(白露)
七月十九日丁卯頼重牽者。
二十一日己巳寅刻、頼重切腹させられる。
二十五日癸酉、下諏訪始めて出仕。
八月小己卯六日彼岸に入る。
八月十二日、棟別帳始める。
九月小戊申。
九月十日丁巳午刻、下諏訪に火を放つ。
九月十一日戊午、信形(板垣駿河守信方)諏訪に向け動く。
十九日丙司巳刻、御出馬。若神子(現須玉町)御陣所。
二十五日壬申、未刻に出て宮川橋(現茅野市安国寺の前)御合戦、蓮芳(高遠頼宗、蓮峯軒)討ち取らるる。長坂筑後守・粟原左衛門高名。酉刻御勝利。
九月二十六日辰刻、仰せ付けられ侯間、高白、藤沢口(箕輸城.藤沢頼親)に火を放つ。案内者神長(守矢頼真)一騎、諏訪薩摩守(諏訪満隆)方竹慶(未詳)は遅れて着陣。
九月二十八日乙亥、簑輸次郎(藤沢頼親)出仕。

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