勝頼、信州伊那で祖父信虎公と対面
(『甲陽軍艦』原本現代訳 発行者 高森圭介氏)
『甲陽軍艦』品第五十一「甲州味方衆の心替わり」
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勝頼公は平山を越えて信州伊那へ御軍馬を入れた。その伊那で、信虎公八十一歳であったが勝頼公と御対面となった。甲州へ信虎公を迎え入れてさしあげるということについて、長坂長閑が考えて申すのに、信虎公は普通の者とはちがった荒大将で、いくつになられても御遠慮などはなさるまい。さらに逍遥軒(信廉)、一条殿(信竜)、兵庫殿(信実)、典厩(信繁)。以上信玄の弟、穴山殿(信玄の妹を妻とする)そのほか御親類が多いので、逆心なさって政変ということにもなりかねない、という意見によって信州伊那で御対面となった。
長閑が心配したように勝頼公との御対面の座で、勝頼公は、母方は誰になるのか、と尋ねなさる。長閑はひきとって、諏訪の頼茂(頼重)の娘の子供でいらっしゃいますという。
信虎公はすこし御機嫌ななめになり、勝頼公は今年で幾歳かと尋ねなさる。長閑はうけたまわり、二十九歳におなりですと申す。その後はそれぞれの侍大将衆のことをお尋ねになった。が、昔の親の名字を名乗る者は一人もいなかった。工藤源左衛門は内藤修理と称し、教来石民部を馬場美濃守といい、飯富兵部の弟は山県三郎兵衛と申す。高坂弾正についてお尋ねなされる。伊沢(石和)の春日大隅の息子ですと申し上げる。信虎公はそれをお聞きになり、百姓を大身の地位にまでしたのは、信玄の考え違いだと仰せられる。
その次に武田の御重代(祖先伝来の宝物)、左文字の刀剣を、押板の上に置きなされたのは、信虎公が四十五歳で甲州を御出立なされた時で、あれから三十七年たって、今八十一歳となり帰参なさろうとしているという話になる。
孫であられる勝頼公に御対面であるから、武田の御重代であるその名刀を御座敷に置きなされるのは当然である。
そこで信虎公は、その御腰物(名刀)を抜きなさって、かつてこの刀で五十人あまりを御手うちなされたのだが、その中に内藤修理と名乗る奴の兄を肩から脇へ斜めに袈裟がけに切ったのだ、と言われる。
その後、勝頼公の御顔を御覧なされ、その左文字の腰物を抜いて、手に持たれたまま、袈裟切りのようになさる。座中の人女の視線はことごとく凍りつき、目もあてられぬ様相を呈したところ、小笠原慶庵という者は、心が剛強だったから、こういう機会にその武田御重代の名刀を拝見させていただきたいと願い出て、信虎公の側に参上して、勝頼公の間に割り入り、その御腰物を無理に奪いとって鞘に納め、おしいただいて長閑に渡したのだった。
信玄公のお目がねで、この小笠原慶蕃をたのもしいとお認めになり、御咄衆の一人として、話相手になされて、大勢の中からこの慶庵を大事な場所へも連れて行かれたものだったが、やはりこの様に剛たる者と慶蕃を見抜かれた信玄公を、諸人が尊敬したのはもっともなことである。その後すぐに勝頼公は甲府へ御帰りなされたけれども、信虎公は、伊那へそのまま留めおかれたのだったが、それは長坂長閑の判断がよかったといえる。信虎公はやがて御他界となられた。