黒露(雁山)と百庵
其角と嵐雪が死んだ宝永4年(1707)、雁山は22才、百庵は13才。素堂はこの時期元禄16年末の地震火事で焼け出され、宝永元年に深川六間掘の続き地に家の建築願いを出して上洛の旅に出て、京都で越年して宝永2年5月末に江戸に帰った。江戸の家を守っていたのは子光か僕伝九郎、それに雁山であったのであろうか。
宝永4年春、素堂は上京して『東海道記行』を著した。このために其角の病死に会えず、追善にも出席できなかった。その年の10月の嵐雪没には間に合って、雷堂百里の嵐雪追悼集『風の上』に序文を載せた。次いで九月末頃に雁山を伴って浅草へ、鈴木三左衛門の勧進興行を見物(『摩訶十五夜』)に出かけている。雁山は6月越後の人志村無倫編の『紫竹杖』(江戸俳友よりの送句)に入集している。
雁山が俳諧に手を染めはじめたの頃の素堂の周辺には、其角・嵐雪・桃隣・沾徳らとその一門が大半を占めていた。雁山の言によれば、素堂は様々な指導をしていたが、雁山は嵐雪の生前に彼の所え出入りしていたらしい。後に其角門の人たちと親しく交流しているから、其角・嵐雪周辺の俳人と思える。
百庵は素堂門とも言われるが、どの辺りにいたのであろうか。結婚するまでの30才頃まで放蕩生活に浸っていた。つまり享保12年(1727)くらいまで遊び呆けていた
という。『連俳睦百韻』の序文の中に、水間沾徳・佐久間長水の事が引き合いに出てくる。
沾徳は享保11年(1726)に没して、その追悼集『白字録』(沾州・長水等編)を撰した事が記されている。この年百庵32才、翌年は子供の安明が生まれ、享保15年には其角門の午寂による『太郎河』(8月刊)に百庵として登場する。この集は其角系統を主に沾徳、調和系の俳人で構成された集で、百庵36才の時である。各書に見られる俳号の由来は、これ以前に成されたものと考えられる。周辺では享保12年には高野百里や素堂の序文(『一字幽蘭集』)を写した書道家佐々木文山などが没している。享保19年には豪商紀伊国屋文左衛門が没して、馬場美濃守信房を祖という馬場存義が立机している。
紀伊国屋文左衛門と寺町百庵
文左衛門は寛文9年(1669)の生まれ、姓は五十嵐、初めは文吉のち文平。紀伊熊野の産で、若くして江戸に出て商いを学び、材木商を営みながら、紀伊国の物産を江戸で捌いたという。元禄の初め頃、其角に俳諧を学び俳号千山と云う。(千山を号する同時代の俳人がいた)書は佐々木文山の兄玄龍に習った能書家でもある。江戸と云う土地での商売柄、幕府の要人に取り入るために、吉原と云う廓を舞台に派手な遊びを繰り広げ、特に奈良茂と云う豪商に張り合う為にはかなり苦労したらしい。その一つが吉原揚町での小粒蒔きの逸話があり、奈良茂の接待交渉を妨害したという。
紀文が吉原を積極的に利用し、商売のための社交場とし始めたのは元禄の初期からで、殊に幕府勘定方萩原重秀や将軍側用人柳沢保明(後の吉保)など、幕府要人との接触にあった。為に二回の吉原惣仕廻しをしての豪遊が伝えられ、取り巻き連中は其角をはじめ、交際の広い其角から多賀朝湖(英一蝶)や佐々木文山らと知り合い、同業の栂屋善六などがいた。また元禄6年には其角の手引きで芭蕉にも紹介され、翌7年の難波畦止亭での芭蕉最後の句会にも一座した。
紀文が吉原で豪遊したのは宝永五年(1708)頃までのようで、翌6年は店仕舞いと旅行に出ているところから年初くらいまでとみられる。後に享保年間の出来事として語られているのは後の人の仮託した噺である。百庵が紀文の豪遊に参加したり小粒蒔きを買って出たとする噺も、この年、百庵は数えのやっと14才である。紀文の豪遊と百庵の放蕩が結びついた噺でないだろうか。