『毫の秋』 素堂嫡孫 山口素安の文
執文朝が愛子失にし歎き、我もおなじかなしみの袂を湿す。
まことや往し年九月十日吾祖父素堂亭に一宴を催しける頃、
よめ菜の中に残る菊
といひしは嵐雪の句なり。猶此亡日におなじきを、思ひよ
せて、
十日の菊よめ菜もとらず哀也
かくて仏前の焼香するの序、秋月素堂が位牌を拝す。百も
とより素堂が一族にして誹道に志厚し、我又誹にうとけれ
ば、祖父が名廃れなむ事を惜み、此名を以て百庵へ贈らむ
と思ふにぞ、かゝるうきが中にも、道をよみするの風流、
みのがさの晴間なくたゞちにうけがひぬ。よって素堂世に
用る所の押印を添えて、享保乙卯の秋九月十一日に、素堂
の名を己百庵へあたへぬ。 山口素安俳号百庵の初出は今のところ享保15年(1730)午寂編『太郎河』で其角系を主に沾徳・調和系の俳人十六人の独吟歌仙集で、 里村 家連歌師の丈裳も入っている。午寂は人見元治・又八郎といい、其角門である。儒学者で医師、幕府に出仕する。素堂と親しかった人見竹洞の一族の人見必大の子である。次いで享保19年の前出の『たつのうら』と同年4月刊行の百庵他編『今八百韻』で、百庵や青峨等との四吟ほか、江戸新風を目指したもの。元文元年の『毫の秋』に露月の『跡の錦』、寛保3年の二世湖十の『ふるすだれ』宝暦6年(1756)6月の栄峨編『心のしおり』などが知られている。『心のしおり』には松江。新発田諸侯や江戸座の俳家に柏筵ら役者が参加している。