素堂関連句 玄峰集(嵐雪)
菊九章 その二素堂亭に人々菊見られけるに かくれ家やよめ菜の中に交る菊 元禄十三年(1700)素堂五十九歳嵐雪を悼む辭 (宝永四年・1707 嵐雪歿)嵐雪子は芭蕉の翁とひとしく、予が市中に住しころより逢なれて、凡みそちあまりの舊知音也。(中略)洛陽に遊ひしころ、大津四の宮にて、本間佐兵衛丹野事勧進能の沙汰を聞きまかりけるに、嵐子も彼浦にありて、山本氏の別業にて、両三日相か...
View Article〔参考資料〕素堂の詩 『俳諧二百年史』
〔参考資料〕素堂の詩 『俳諧二百年史』 素堂を以て一廉の詩文に精通せるものゝ如く云へるのは、甚だ以て解すべからざる所なりとす、素堂の詩文の如きは随分と迷惑なものにして、精通とか巧妙とかうふべき程のものにあらざるを、芭蕉が之を以て精通云々せるは、悪く之は解釈する時は彼は素堂に限らず敢て何人に對しても阿諛せりと認むる能はざるを以て、然らば盲従せしものか如何。
View Article素堂関連年表(素堂と親しい人の動向)明暦元年~
素堂関連年表(素堂と親しい人の動向)明暦元年~◇明暦 元年(一六五五)北村季吟が俳諧の奥書「俳諧理木」を著す。(季吟は延宝三年、素堂を招いて、京都にて「歓迎百韻」を催す)○山田宗偏が小笠原家の茶道指南となる。(素堂の友人 「今日庵」の掛軸を素堂に贈る)**明暦 三年(一六五七)一月、江戸の大火。林家の文庫類焼し「本朝通鑑」焼ける。同月林羅山没七十五才 万治...
View Article歴史上の人物 京極宰相高次
京極高次京極高次、小字冲法師丸、後小兵衛と称す、天正元年(1573)七月織田信長に仕へ、近江の田五千石を賜ふ、高次の妻は浅野長政の女淀君と姉妹たり、因りて豊臣秀吉に親眤せられ、十二年(1584)田二千五百石を加ふ、十三年七月従五位上侍従兼近江守に叙任す、後ち屢田を加増し官位を陞進(しょうしん)し、十二年滋賀郡に轉じ、東邑六万石を食み大津城に治す、慶長元年(1596)従三位參議に叙任す、四年(1599...
View Article廻米と塩の富士川水運
廻米と塩の富士川水運 江戸から甲州を横断し中山道に結ばれる要路であった甲州街道と、甲府盆地南部から駿州に通ずる富士川水運は、近世甲州における主要な交通路をT字型に示している。...
View Article完成 白州町の水害史
白州町の水害史白州町域水害史●0825 天長2年4月、山岳崩壊洪水氾濫〔甲斐国志〕●0833 天長10年 大洪水〔甲斐国志〕●1100年代(平安・鎌倉)田沢川の氾濫。前沢の雑木、油窪への流下。家屋等を押し流して当本川原で釜無川に落ちる。〔考〕●1242 仁治3年8月、大雨洪水河水氾濫。〔甲斐国志〕●1251 建長3年 大雨洪水河水氾濫。〔甲斐国志〕●1283 弘安6年...
View Article完成 白州町水害史 その2
●1714 正徳4年5月、大出水。●1715 正徳5年 大出水。●享保年間 1716~34 度々氾濫する。●1720 享保5年 大出水。●1172 享保13年7月~9月、諸川氾濫、堤防・橋梁一道路流失。釜無川小武川切れ込み山押し。尾白川決壊、田畑に砂入り石を置く。●1731 享保16年5月、15日~24日に及ぶ降雨。国中一帯洪水甚だし。●1742 寛保2年8月1日、大洪水。●1747...
View Article完成 白州町水害史 その3
●1836 天保7年 〔台ヶ原文書〕川欠。●1837 天保8年 〔白須文書〕田流。●1839 天保10年 〔白須文書〕田流。●1840 天保11年 〔台ヶ原文書〕子押堀石砂入。(尾白川)●1845 弘化2年 〔白須文書〕巳2月4日付け道中明細軽「南川.田沢川両川原間の距離1町6間」「境川切込田沢川長24間、田沢切所20間、南川切所18間、(川除一両線右腹何基40聞、平均高2尺横2聞)●1846...
View Article白州町水害史 その4
●1907 明治40年8月22日より24日まで大麦雨、甲州河なく一面泥海云々。〔白州文書〕釜無川堤防決壊、上教来石3ヶ所275間、下教来石64間、流川字橋下9間、免租白須13筆5反1畝18歩。○水害後に赤痢発生する。●1909 明治42年 水害、橋流失し交通途絶。●1910...
View Article木食上人 肖像・略歴
木食上人木食名は応其高野山興山寺の開祖なり、近江佐々木氏の産身の長六尺餘紳機淵鑑にして儀貌堂々たり、學を好み歌を詠し篤く内教を信欽し、時々桑門に遊ぶ、年二十七「よしや世にいはねの小松年経とも逢見んもたゝこからしの風」と詠し塵累を脱して登山、し文珠院勢誉の室に入り受戒する、常に塩穀を断ち木食して精修苦行する、天正三年(1575)豊臣秀吉根本寺を破却せんとする、木食は秀吉に見えて畏服を説き許容せらる、即...
View Article松田政行 肖像・略歴
松田政行初め前田玄以の邸に在り慶長五年(1600)徳川家康に大阪に謁し、十月丹波桑田郡に於て采地二千石を賜ふ、政行京洛の事を識るを以て加藤喜左衛門正次に属し、京都所司代副と為る、慶長十一年(1606)五月廿七日歿す、年五十三、法名鐵公、京都建仁寺の靈洞院に葬る、其肖像の賛に曰く...
View Article豊臣秀吉 肖像・略歴
豊臣太閤秀吉豊臣秀吉幼名日吉、通称與助、後、木下藤吉と改める、尾張愛知郡中村の人、幼より大志あり稍長じて織田信長に仕える。信長斉藤氏と兵を交えるや、初て甲士五百に将として功を成す、因って三千貫を賜い名に命じて秀吉と曰う、永禄十二年(1569)将軍足利義昭一将を得て京師を鎮せしめんとする、信長之を秀吉に命ず、元亀元年(1570)朝倉義景を撃で功あり、愛知川三萬石を食む、天正元年(1573)浅井長政親子...
View Article榊原康政 肖像画・略歴
榊原康政小字亀丸稍長じで小平太と改める、幼い時より学を好み書を能くする。酒井忠尚に属し、上野城に居るや、徳川家康召して之に録す、永録六年(1563)年甫めて十六一向の徒を攻め功あり、後も家康に近侍し諱字を賜いて今名に改む、姉川味方原役先驅を爲し、其他大小数戦皆功あり、小牧の役康政檄を楽田の諸栄に傅へ、秀吉恩を忘れ主家に讎(むくい)す暴戻大逆と為す、秀吉怒りて千戸侯を以て康政の首を贖(あがな)ふ、家康...
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