廻米と塩の富士川水運
江戸から甲州を横断し中山道に結ばれる要路であった甲州街道と、甲府盆地南部から駿州に通ずる富士川水運は、近世甲州における主要な交通路をT字型に示している。
笛吹川・釜無川など甲府盆地の諸河川を合して南流し、やがて駿河湾に注ぐ富士川に水運が開かれたのは、慶長一二年(一六〇七)徳川家康の命による角倉了以の開削以後である。こうして整備された川丈一八里という舟運の起点となったのは、鰍沢(現、鰍沢町)・青柳(現、増穂町)・黒沢(現、市川大門町)の三河岸で、終点は駿州の岩淵河岸(現、静岡県富士川町)であった。
三大急流の一つに数えられる富士川は難所が多かった。岩石の多い急流に用いるため、舟は平底で抽先と船尾が高くなっていて、見た眼に薄いところから笹舟、あるいは高瀬舟と呼ばれた。
三河岸から笛吹川は石和、釜無川は韮崎まで遡る舟を近番船といい、この舟で集められた荷は三河岸で積み移されて、ここから岩淵まで一気にこぎ下るのである。享保一七年(一七三二)の「甲州噺(はなし)」は次のように書いている。
鰍沢村より駿州岩淵と申す所迄、川長十八里の所を三時・四時程(約六-八時間)の間に乗り候舟なり。此舟帰りには四日程にて引上げ候。右の通船、鰍沢・青柳・黒沢と申す三ケ所の川岸に、舟数二百四五十般余これあり。
富士川水運は元来、甲州の年貢米を江戸へ積み送る〝廻米″にあった。三河岸には年貢米を置く「御米蔵」が設けられており、一艘に米三二俵を積んだ番船をもって岩淵河岸へ運送した。そして、岩淵から蒲原浜(現、静岡県蒲原町)まで陸付け輸送、蒲原浜から清水湊(現、静岡県清水市)へ小廻し、清水湊から江戸浅草蔵前へ大廻しとなるのである。とすれば、富士川水運が事実上完結する所は清水湊であったといえる。
舟運は一般旅客に供されもしたが、下り荷として甲州産出の米穀類や生糸・煙草・木炭などのほか、信州の諏訪・松本方面から中馬で韮崎宿を経て鰍沢へ運ばれてきた諸商品が搬出されていった道であることに注目しなければならない。さらに重要なのは、甲州にとつて塩の搬入路であったことである。内陸国甲州の人びとの生活に欠くことのできない塩は、これまで甲駿を結ぶ三通などを経て運ばれてきたが、ここに水運が塩の道となったのである
いわゆる上り荷の中心となった塩は、江戸時代初期には主に駿河湾一帯で生産されたものであったが、一七世紀後半以降、全国的な商品流通の進展にともなって、瀬戸内産の竹原塩・波止浜塩などに変わっていった。
富士川を上る塩の量は、化政期(一八〇四~三〇)以後は年間、大俵(一二貫目俵)でおよそ一二万俵といわれた。これは曳舟で四日間ほどを要して三河岸に運ばれた。そこから、各地へ馬荷となる塩は、国中地方の需要をみたす共に、信州の諏訪・伊那・佐久方面へ供給されたのである。そのほか、上り荷は魚・瀬戸物・藍玉・干し鰯・畳表などがあった。
身延詣での賑い
甲府城下の西青沼町と、韮崎宿に発する駿州往還は、三河岸の一鰍沢で合し、そこからは富士川右岸を泉州へ通ずる往還であった。
そして、河内領の半ばほどに位置する日蓮宗経本山の身延山久遠寺(身延町)へ参詣する人びとの道筋でもあったことから、身延道の名があった。
石和宿(現、石和町)の笛吹川河岸から身延山への下り舟を利用する者もあったが、甲府城下で宿泊し、平坦な鰍沢への道をとる者が多かった。そして、鰍沢から大野まで舟で下ることもあったが、水路によらず陸路をとると、「大方、山添ひの道にて、富士川の西の岸なれば、或は嶮しきがけ路をよぢ、或は河原の石間を伝ふ、されば、足もとはいとむずかしきけれど、山川のけしきはえもいはず面白し」
と記すのは、国学者黒川春村の「並山日記」で、彼はこの道を通って身延山へ詣でている。
古くは寛文年間(一六六一~七三)、甲府盆地西部に徳島堰を開削する大土木工事の発端となったのは、江戸の商人徳島兵左衛門が深く信仰する身延山参詣の途次、その地の水に恵まれず芝間の多い状況を目撃したことによるといわれ、また元禄九年(一六九六)、俳人山口素堂が代官桜井政能に協力しての濁川治水工事に従事することになったのも、その前年、素堂が亡母の遺志を継いで身延山詣での帰途、甲府に滞在中での桜井との出合いによっている。
身延参りが普及するのにしたがって、文人による参詣の紀行も数多くみられるようになり、十返舎一九の『身延山道中ノ記・金草鞋十二編』も書かれるわけである。
文政一三年(一八三〇)三月、武田勝頼の二百五十回遠忌に当たるので、土浦藩士の吉田兼信(かねのぶ)が、藩主の祖で勝頼に殉じた土屋惣蔵や勝頼の墓に詣で、また武田氏由縁の社寺参詣のあと、甲府から身延道にはいっていく。そのときの紀行は、「甲駿道中之記」にくわしい。
彼は身延の町へ着くが旅宿がないため、表で小間物や荒物を商っている商人宿に泊まることになる。風呂もないので隣家で貫い湯をし、食事は魚などなく、莱に油揚げ玉の味嗜汁で口にもはいらない。翌日、身延山に登ったが、先年七堂伽藍が塊亡して(文政七年・一二年両度の火災による)普請中であった。山を下って大野村から富士川の下り舟に乗る。舟の長さは四間余、幅四・五尺、天気が続いて水量が少ないため、ときどき舟底が岩横にあたって胸に響き気味が悪い。南部村(現、南部町)の河岸に舟を付けて休んでいると、ここの女どもが田楽や餅・団子などを持ってきて押し売りをする。買わないといろいろなことをいって罵るさまは興がある、と、当時有名だった南部河原の押し売りにまで筆がおよんでいるのである。
年間を通して、身延通が賑わいを示すのは、毎年一〇月一三日、身延山で行われる大法会であった。いわゆる身延山会式である。四方から老幼男女の群参はおびただしかった。このときは、鰍沢と黒沢の番所を往来する参詣の女人が多いため、甲府の信立寺以下、日蓮宗五ケ寺の証文をもつて女人通行を認めたといい、また、会式中賑わう鰍沢の酒食店は、土地の者ばかりでは足りず、甲府や市川大門から男女料理人を集め、酒肴の類の仕入れも多かったという。