葛飾派の俳論書
葛飾派の俳論書 葛飾派の馬光に伝わる俳諧書には享保十六年(1731)の馬光の門人練水書写による『俳諧大意弁』が有るが、この書が素堂から馬光に伝わったのかは不詳である。この様な俳諧論書は古くは 北村...
View Article芭蕉門弟の俳論書
芭蕉門弟の俳論書○元禄3年(1690)『聞書七日草』図志呂丸著(呂丸は元禄6年京都で客死)○元禄4年(1691)『雑談集』宝井其角著。●元禄7年(1694)芭蕉没。○元禄11年(1698)『俳諧問答』森川許六(芳麿編『青根が峰』天明5年刊)○元禄11年(1698)『続五論』各務支考著。○元禄12年(1699)『旅寝論』向井去来著。(安永7年刊)○元禄12年(1699)『西華集』各務支考著。○元禄13...
View Article元禄十三年まであった芭蕉庵
素堂59才 元禄十三年(1700) 『冬かつら』杉風編。………芭蕉七回忌追善集……… ことしかみな月中二日、芭蕉翁の七回忌とて、翁の住捨ける庵にむつまじきかぎりしたひて入て、堂あれども人は昔にあらじといへるふるごとの、先恩ひ出られた涙下りぬ。空蝉のもぬけしあとの宿ながらも、猶人がらなつかしくて、人々旬をつらね、筆を染て、志をあらはされけり。予も又、ふるき世の友とて、七唱をそなへさりぬ。 其一...
View Article素堂の漢詩文そして芭蕉
素堂の漢詩文そして芭蕉(略)藤原惺窩は冷泉家為純の子で、若くして僧となった人で京都嗚相国寺の学僧、程朱の学を学び、桂庵玄樹の「朱註和訓」を学んで独自性を知り還俗し、朱子学を仏教より離して独立させた京学の祖である。朱子学の墓礎を確立し、儒学を貴族・僧侶の社会より解放したのである。後に徳川家康の招致で講援はしたが門人の林羅山を推し、仕える事はしなかった。惺窩も五山派の学僧であったのである。〇林羅山(道春...
View Article内田不知庵氏 「芭蕉後伝」における山口素堂
明治期の内田不知庵氏が、当時引用出来得る限りの吉文献を駆使して、興味深い芭蕉論を「芭蕉後伝」(素堂鬼貫全集)として展開しているので、抜き出しながら紹介するが、不知庵氏の骨子は是々非々の立場を保とうとしているものの、概ね芭蕉門葉の伝書などを用い、元禄期の花見箪、化政期から幕末期の「芭蕉論」書を交えて綴っておられる。編年体論でないところから、芭蕉賛美論に終っているところが少々煩わしい。...
View Article「常陸風土記」 と富士山
「常陸風土記」には、副慈神に関する伝説が伝えられる。 むかし、祖神尊(みおやのみこと)諸神の宮処を巡行なされて、駿河国の副慈岳(即ち富士山)に到った時にはもう日も暮れ方であったので、一夜の宿を請われた。 時に、副慈神の答えのたまわく、「今夜は、新嘗祭で、家内中物忌していますから、おとめ申すわけにはまいりませぬ。」と。それで、祖神尊、恨み告げたまわく、...
View Article<徐福と富士山>
<徐福について>秦国徐福集団の渡来と業績(紀元前219)炎帝神農氏一男、黄帝有熊氏四男、忠顕氏より第八十八代の徐福は、秦国の始皇帝に仕え、勲功多く書記長官に昇進致したが、無見顧所と、始皇帝を内心批判していた。始皇帝は古代中国を統一し、秦国三年の春、東国を御巡幸の時、朝峰山の峰に登り、東海の大海に遊び、蓬来山島を遠望、蓬拝して皇城に帰られた。時に、これ吉幸なりと、徐福は始皇帝に偽り申し上げた。「東海の...
View Article富士山湧出 甲斐國志
富士山湧出甲斐國志巻之三十五 従五位下伊豫守定能編輯----山川部第十六ノ上都留郡----「神社考」に曰、----孝安天皇九年十二年六月、富士山湧出、初雲霞飛來如穀聚云々、依之後に「穀聚山」とも称する。山形平地に穀を盛るが如くなればなり、故に穀を量るに升を以ってするに准らへ、山路を測る称号とすると云う。富士山 甲斐國志巻之三十五 従五位下伊豫守定能編輯----山川部第十六ノ上都留郡----...
View Article◇芭蕉は甲斐に来たのか 史実は何処に
◇『随斎諧話』(夏目成美著。文政二年・1819刊) 芭蕉深川の庵池魚の災にかかりし後、しばらく甲斐の国に掛錫して、六祖五平といふものあるじとす。六 祖は彼もののあだ名なり。五平かつて禅法を深く信じて、仏頂和尚に参学す。彼のもの一文字も知らず。故に人呼で六祖と名づけたり。ばせをも又かの禅師の居士なれば、そのちなみによりて宿られしとみえり又、 『奥の細道管菰抄』(蓑笠庵梨一著。安永七年・1778刊)...
View Article不確かな芭蕉谷村流寓と高山糜塒別荘桃林軒
『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』 芭蕉の甲斐谷村流寓説に大きな力を発揮したのは大虫(明治三年没)の稿本『芭蕉翁年譜稿本』の次の記載による。小林佐多夫氏の『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』に詳しい内容が記されているが、概略は、...
View Article歴史は創作される 芭蕉の谷村流寓
研究者の論議については、 一、岩田九郎氏…『芭蕉の俳句俳文』 仏頂和尚の弟子六祖五平を頼る。翌年夏まで逗留。 二、小宮豊隆氏…『俳句講座』 同内容 三、山本健吉氏…『芭蕉』 同内容 五月まで滞在。 四、荻野清氏…『俳諧大辞典』 塒麋に伴われて谷村逗留。 五、飯野哲二氏…『芭蕉辞典』 同内容...
View Article芭蕉の再来甲(貞享二年) 谷村には来ていない
芭蕉の再来甲(貞享二年) 『芭蕉年譜大成』 芭蕉と甲斐郡内の関りはもう一件ある。『芭蕉年譜大成』によると、 貞享二年四月中旬頃 甲斐の山中を訪れる 甲斐の山中に立ち寄りて 行く駒の麦に慰む宿り哉 甲斐山中 山賎のおとがひ閑づる葎かな...
View Article◇『夏草道中』 貞享二年の芭蕉の甲斐入の疑問
◇『夏草道中』 『夏草道中』では貞享二年の芭蕉の甲斐入を次のように明言している。 《芭蕉の第二回の入峡は、貞享二年初夏四月ことである。貞享元年八月から二年四月までの「野晒紀行」の途次で、二年の春「思ふ立つ木曾や四月の桜狩」と熱田で吟じて、木曾路に入り塩尻、諏訪を経て、甲州道中信州路を東に下った。初狩村の杉風の姉の許に立ち寄って、一昨天和三年暫く世話になった礼をも述べたことであろう。...
View Article素堂 芭蕉 木因
0◇天和 元年(1681)☆素堂40才 芭蕉、38才 〇九月二十九日改元して天和元年素堂の動向東日記 池西富水編 九酉歳林鐘中旬奥 六月中旬刊月 ・王子啼て三十日の月の明ぬら埋火・宮殿炉也女御更衣も猫の声 ▽七月廿五日 桃青・木因を迎えて三物 秋訪はばよ詞はなくて江戸の隠 素堂 鯊(ハゼ)釣の賦に筆を棹さす 木因 鯒(コチ)の子は酒乞ひ蟹は月を見て 桃青...
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