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◇天和 元年(1681)☆素堂40才 芭蕉、38才 〇九月二十九日改元して天和元年 素堂の動向 東日記 池西富水編 九酉歳林鐘中旬奥 六月中旬刊 月 ・王子啼て三十日の月の明ぬら 埋火・宮殿炉也女御更衣も猫の声 ▽七月廿五日 桃青・木因を迎えて三物 秋訪はばよ詞はなくて江戸の隠 素堂 鯊(ハゼ)釣の賦に筆を棹さす 木因 鯒(コチ)の子は酒乞ひ蟹は月を見て 桃青 〔この三物についての資料〕 『校本 芭蕉全集 第八巻 書翰編』 小宮豊隆監修 荻野清 今栄蔵校注 一部加筆 一 木因宛(延宝九年七月廿五日) 九月二十九日改元 天和元年 御手紙忝致二拝見一候。昨日終日御草臥(くたびれ)可レ被レ成候。されども玉句殊(の)外出来候而、於二拙者一大慶(に)存候。就レ其香箸の五文字いかにも御尤(に)被レ存候間、かれ枝と御直し可レ被レ成候。愚句も烏の句・猿の句皆しそこなひ残念ニ存候。 寐に行蝿の烏つるらむ といふ句ニ而可レ有二御座一を、急なる席故欠ごろをはやくはなち、面目もなき仕合(しあはせ)にて御座候。且又今日之儀、天気此分ニ御座候ハヾ御同道申度候。天気能過侯へバ、亭主も宿に居ぬ事可レ有二御座一候。幸ニ御座候間大かたの天気ニ御座候ハヾ、御同道可レ申候。天気あしく御座候ハヾ私宅にて語可レ申候間、昼前より御入来奉レ待候。されども拙者夜前ハ大ニ持病指発(さしおこ)り、昨昼之気のつかれ夜中ふせり不レ申候間、昼前迄気を安メ可レ申候間、かならず昼前ゟ御出可レ被レ成候。 清書之致様あしく侯ハヾ、是又可レ被二仰聞一候。 一、七百五十韵爰元ニはや無二御座一候。其元ゟ京へ可レ被二仰遣一候。 明日御隙ニ御坐侯ハヾ、朝之内ニも御入来可レ被レ成候。此度返ぐ御残多難レ盡候。以上 (前略) 木因が芭蕉の真蹟によって写し、本来「桃青」とあって署名の個所を、一般の耳に親しい「はせを」の号に便宜改めて掲げたものらしく、執筆の年次は、次出の一通に照らし、また本書簡に見える「寐に行蝿の烏つるらむ」の付句が『次韻』調であることから、延宝九年と決定される。次出のものとの先後はなお知られないが、ともあれ二通共に、現在伝わる芭蕉書簡中もっとも早期の筆であり、珍重すべき書状と考えられる。 延宝九年度における木因の東遊は、他に資料の徴すべきものがなく、ここに出す二通の芭蕉書簡を通じてのみ判明する事実であった。江戸で木因は、芭蕉や素質らの季吟門の人々に接し、数度にわたり俳席も共にしたようで、書中の「亭主」もおそらくは素堂をいうものと解せられる(次出書簡の頭注参照)。木囲が芭蕉に心服し、芭蕉に帰依するに至ったのは、この時以後であるべく、その意味からするとここの二通は、木因個人の伝記資料であるだけでなく、蕉風伝播史の上からも逸しがたい資料と見られるのである。 註、亭主=素堂 (前略) 一通の執筆が延宝九年秋であるのは、後段に見える『七百五十韵』 問係の記事や添状に掲げる連句の季によって明白であろう。 木因添状に記す素堂・木因・芭蕉(当時は桃青)の三吟連句に関して認めた書状であるが、別にまた『七百五十韵』が江戸市中の書肆に払底した事実を報じ、直梓京へ注文すべき旨を申し添えており、同書が江戸俳人の間で争って読まれた事を伝えて興深い。木因の添状は、この書簡を理解する上に不可欠のもと考えられるので、左に全文を録しておく。 今朝は(注、要所冒頭の文字) 芭蕉翁筆 印 印 (注、下の角印には谷氏印とある) 右手簡、予先年東武滞留之節山口素堂隠士をとふに、あ るじ発句あり、予脇あり、芭蕉見て第三あり、是を桃青清 書して贈れり、其の時の一簡なり。 木因大雅のおとづれを得て 秋とハヾよ詞ハなくて江戸の隠 素堂 鯔(はぜ)釣の賦に筆を棹(さをさす) 木囚 鯒(こち)の子ハ洒乞ヒ蟹ハ月を見て 芭蕉 清書如レ此。本紙ハ赤坂金生山堯遍法印所望に て贈レ之 白桜下木因記 印 印 【註】七月二十五日付木因宛書簡が現存する最も古い芭蕉書簡。「はせを」と署名。 〇九月二十九日改元して天和元年 ◎季吟合点懐紙断簡(延宝六年三月以降の物、江戸三吟の物に批点したと思われ、季吟の批点に芭蕉の附句がある。) ・婿を祝ひかけにまかせて桶の水 素堂 履 背 苦 瘠 馬 素堂 丸 身 類 裸 煌 素堂 |