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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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芭蕉の再来甲(貞享二年) 谷村には来ていない

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芭蕉の再来甲(貞享二年)
 
『芭蕉年譜大成』
 芭蕉と甲斐郡内の関りはもう一件ある。『芭蕉年譜大成』によると、       
  貞享二年四月中旬頃      甲斐の山中を訪れる  
 甲斐の山中に立ち寄りて 
  行く駒の麦に慰む宿り哉                         
 甲斐山中          
 山賎のおとがひ閑づる葎かな
 貞享二年四月末甲州街道経由で江戸に帰省。(木曾路経由の予定を東海道に変更)とあり、この「山中」についても「さんちゅう」か地名「やまなか」と読むかが論争点になっている。             
 
 四月九日には鳴海の知足亭を訪れ一宿、四月十日には知足亭を出発、帰路は東海道を下った可能性が大である。と今栄蔵氏は推察されている。がこれさえも定かではない。諸説があり又、芭蕉の身辺についても記述された部分(甲斐の)が少なく推論でしか語れない事になる。「推説」は「定説」にはならない。今氏によると東海道から甲斐山中に立ち寄ったことになり、天和三年(1683)に続いて貞享二年(1685)の甲斐入りは年代も近く、全く無関係ではあるまい。天和二年の甲斐流寓が確実なものであれば貞享二年の芭蕉の行動も先年の謝礼のために甲斐山中に立ち寄る事情があった事は人間としてごく自然であり、その関連を追求すれ天和三年の甲斐逗留も明確になる可能性が有り、研究の余地が残されている。絶対的な資料が無い限りは今後も定説はないままに諸書に著述されて行く事になる。是非小林貞夫氏の『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』赤堀文吉氏の『研究紀要』所集の「天和三年の芭蕉と甲州」の御一読をお薦めする。 
 天和二年の『武蔵曲』・『錦どる』には芭蕉・麋塒・素堂翁も参加している。芭蕉と麋塒もだが麋塒と素堂翁も前述の谷村城主秋元但馬守と素堂の関係も官職を通じ深い繋がりがあったと思われる。素堂は晩晩年、川越を訪れている。この天和二年当時は芭蕉・三十九歳。麋塒三十四歳。素堂四十一歳である。もっとも芭蕉の生まれたとされる正保元年(1644)は寛永二十年十二月十六日に改元があり十二月十六日~三十一日までの十六日間が正保元年となり、芭蕉はこの間に生まれた事になるとの見解を示す研究者もおられる。

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