素堂の儒学と漢詩文
素堂が林門で経学を修めたと云う記述は、今のところ見えない、ただ林家の私塾は儒学だけではなく、前述の如く四書五経から和文に及び、師の春斎も認めていた俊才子晋(素堂の号)は、先輩の英才人見竹洞も一目おくほどで、生涯親友の交わりをしていた。しかし子晋は二十前後で林門を去ったが、完全に関係は切れて無かったのであろう。後に弟と言う訥言や水間沾徳を林門に入れ、儒学をもって諸藩に講義したとされる。
私人としての素堂の生業は不明の事が多く、号名を素仙堂と云うから書家であるか、医師の家であったのか不明だが、この号の仙の字を省いて素堂とした訳で、芭蕉も延宝時代素宣を号しているから、医に関係が有りそうである。林門時代で子晋と記したが、実名を信章とするには着干疑問が残り、子晋としたのであるが、素堂自身「山口信章来雪」と署名しているし、黒露の「睦百韻」小叙に
「人見竹洞子、素堂を謂ていはく、素堂とは山口信章来雪なりと」
とあり、百庵の「連俳睦百韻」序に「山口素仙堂太良兵衛信章」と有るから、そうで有ろう。だがまだ雅号のような気がするからである。
素堂が林門で経学を修めたと云う記述は、今のところ見えない、ただ林家の私塾は儒学だけではなく、前述の如く四書五経から和文に及び、師の春斎も認めていた俊才子晋(素堂の号)は、先輩の英才人見竹洞も一目おくほどで、生涯親友の交わりをしていた。しかし子晋は二十前後で林門を去ったが、完全に関係は切れて無かったのであろう。後に弟と言う訥言や水間沾徳を林門に入れ、儒学をもって諸藩に講義したとされる。
私人としての素堂の生業は不明の事が多く、号名を素仙堂と云うから書家であるか、医師の家であったのか不明だが、この号の仙の字を省いて素堂とした訳で、芭蕉も延宝時代素宣を号しているから、医に関係が有りそうである。林門時代で子晋と記したが、実名を信章とするには着干疑問が残り、子晋としたのであるが、素堂自身「山口信章来雪」と署名しているし、黒露の「睦百韻」小叙に
「人見竹洞子、素堂を謂ていはく、素堂とは山口信章来雪なりと」
とあり、百庵の「連俳睦百韻」序に「山口素仙堂太良兵衛信章」と有るから、そうで有ろう。だがまだ雅号のような気がするからである。
さて、まくらが長くなったが、素堂は漢学・和文に造詣が深く、漢詩を得意として、石川丈山を尊敬していた。漢学者丈山は、朝鮮通信使の権式之が日東の李杜と称美された詩人で、殊に素堂はその生き方に深い感銘を受けて、退隠後は斯く有りたいと思ったようである。竹洞は万治元年京都に丈山を訪ね、いろいろと尋ねているから、竹洞から素堂は啓発され、敬慕に導かれたかも知れない。万治元年は竹洞二十三才、素堂は十七才である。或いは竹洞に誘われて対面したか不明だが、丈山の存命中に対面しているらしい。素堂は丈山に魅力を感じて敬愛して止まなかったのである