◇『夏草道中』
『夏草道中』では貞享二年の芭蕉の甲斐入を次のように明言している。
《芭蕉の第二回の入峡は、貞享二年初夏四月ことである。貞享元年八月から二年四月までの「野晒紀行」の途次で、二年の春「思ふ立つ木曾や四月の桜狩」と熱田で吟じて、木曾路に入り塩尻、諏訪を経て、甲州道中信州路を東に下った。初狩村の杉風の姉の許に立ち寄って、一昨天和三年暫く世話になった礼をも述べたことであろう。
追而申入候。此中にふじに長々逗流、其上何角世話に成候へば、別而御内方御世話に候。いしがしき中に、うかうかいたし居候而きのどくに候。長雨にふりこめられ候事、とかうに及びがたく候。
行駒の麦になぐさむやどりかな
いずれへもよろしく御まうし可被給候。くはしきは重
而々以上十三日 桃青
空水様
そして
(書簡の日付は)帰庵後の五月十三日と思われる甲斐の俳人、空水宛ての此の書翰でも明らかのように、空水(『夏草道中』筆者注-不明)のところで、雨に降りこめられなどしたが、今度は、甲州道中二十五次を踏破して、四月末に深川の芭蕉庵に帰った。》
とあるが史実なのであろうか。
芭蕉は熱田からの帰路に木曾路から甲州街道に入り、郡内に至る道筋を踏破した事は文献資料には見えず、諸説混迷しているのが現状である。
『芭蕉傳記考説』「行實編」(阿倍正美氏著)によると、芭蕉は四月九日熱田を出立して、鳴海へ、十日江戸へ下る(『知足齋々日記』)。その後の芭蕉の行動は不明である。木曾路なのか、東海道を通ったかは資料不足で決定していない。それに関する書簡などがあっても、『野晒紀行』には甲斐の途中吟などは見えず、
甲斐の国山中に立寄て
行駒の麦に慰むやどりかな
の記載となる。阿倍正美氏『芭蕉傳記考説』によると、この「山中」のは
かひの国山家に立ちよる……………真蹟長巻
甲斐の国山家にたちよりて…………泊舶集
甲斐の山中に立ちよりて……………真蹟絵巻本
甲斐の国山中に立寄て………………濁子絵巻本
とありその読み方も「やまなか」か「さんちゅう」か意見が別れる所ではあるが、芭蕉が鳴海から東海道経て、御殿場から須走を通り籠坂峠―山中―谷村(流寓か)甲州街道を通過して江戸に戻ったか、木曾路をへて諏訪から甲州街道を経て郡内谷村に入ったのか、資料文献からは決定することはできない。
しかし先述の『夏草道中』には芭蕉は甲州街道を利用し江戸へ戻ったと明記してある。こうした確説のような話は、後に比較資料を持たずにその書を読む人には真実として伝わる事となるのである。