「常陸風土記」
には、副慈神に関する伝説が伝えられる。むかし、祖神尊(みおやのみこと)諸神の宮処を巡行なされて、駿河国の副慈岳(即ち富士山)に到った時にはもう日も暮れ方であったので、一夜の宿を請われた。
時に、副慈神の答えのたまわく、「今夜は、新嘗祭で、家内中物忌していますから、おとめ申すわけにはまいりませぬ。」と。それで、祖神尊、恨み告げたまわく、
汝(いまし)が親に、何故宿を借さないのか。さればよし、汝がいるところの山は、生涯夏でも雪霜に襲われて、人も登らず、飲食物を献るものも無からしめ富士を望んとおおせられて、祖神尊は、更に、筑波岳までまいられて、一夜の宿を誘われた。筑波 の神は、今夜は新甘祭でありますけれども、敢てお言葉に従いましようといって、直に飲食を設けて敬い仕え奉った。
そこで、祖神尊は、歓然として謡いたまうよう
「愛しきかも我が胤、巍きかも神つ宮、天地を竝斉しく日月と共同じく、人民集い賀び、飲食富豊に、代々絶ゆることなく、日々に弥栄えて、千秋万歳、遊楽窮らし。」と謡いたまわれた。それで、副慈岳は、常に雪ふりてりで登ることを得ず、筑波岳は、往集い、歌い、舞い、飲み、喫いすること、今に至るまで絶えないのだということである。