素堂追善 謝道
来れるは何ごとぞや。なつかしの素堂、しかじかの夜復命すとや。我此人をしらず。それを唯しらず。まことに蓮を愛して周子に次ぎ、名を埋て炉下に帰ス。されば其情を同じうして其世を同じうせざることをうらむ。愁て今さらに其ことをしらんとすば、炭消えて灰となり、灰空しうして一炉寒く、残るものとては唐茶に酔し心のみなりけらし。猶その趣を携て一句を積とは、我をしてなかしむるか。汝におなじきものは何ぞや。葉は眠るに似て...
View Article素堂追善 三潭印月硯 釈心越禅師及有一見。竹洞記
三潭印月硯 釈心越禅師及有一見。竹洞記(幕府儒者) 端石円而大不満尺。 石而如高山聳峙有其中自然淵。 濃意味不似異石。 所謂為硯海有三孔偶通墨矣。 謂與西海一景三潭印月硯。 尚二子於記中詳焉。 雲起す硯の潭の秋の風 雁山一とせ野竹洞老人より素琴を送られける趣を 月見前聞たことありいとなき世
View Article素堂と雁山
雁山は幼い頃は甲府から京都に出て入山していたようで、素堂も京都には頻繁の出かけていて、素堂への移住への思慕を表わした句文もあり、晩年は京都で越年することも度々あった。『通天橋』は京都臨済宗東福寺にある橋の名称であり、嘉禎2年(1236)に藤原道長が創建し、禅宗の一派の寺院で唐の普化禅師を祖とし、建長6年(1254)に東福寺の法燈国師覚心が普化宗を宗より伝えたという。東福寺大本山として江戸時代には幕府...
View Article素堂の後継者か 馬光と素丸
馬光と素丸 馬光は『葛飾正統系図』によれば、二世其日庵を名乗り初名を素丸といった。俗称は長谷川半左衛門・藤原直行。名を白芹と云い、素堂の門に入り絢堂素丸と改め、後に其日庵二世の主となり、『五色墨』や『百番句合』を著した。...
View Article素堂と寺町百庵
寺町百庵 寺町百庵は素堂の一族の出身であると『俳文学大辞典』などにも記載がある。百庵は元禄八年(1695)の生まれである。百庵の考証は中野三敏氏の「寺町百庵の前半生、享保の俳諧」に譲り、諸書に紹介されている略歴を記すと、姓は寺町、名は三知(智)また友三...
View Article『毫の秋』 素堂嫡孫 山口素安の文
『毫の秋』 素堂嫡孫 山口素安の文 執文朝が愛子失にし歎き、我もおなじかなしみの袂を湿す。 まことや往し年九月十日吾祖父素堂亭に一宴を催しける頃、 よめ菜の中に残る菊といひしは嵐雪の句なり。猶此亡日におなじきを、思ひよせて、十日の菊よめ菜もとらず哀也...
View Article黒露(雁山)と百庵
黒露(雁山)と百庵 其角と嵐雪が死んだ宝永4年(1707)、雁山は22才、百庵は13才。素堂はこの時期元禄16年末の地震火事で焼け出され、宝永元年に深川六間掘の続き地に家の建築願いを出して上洛の旅に出て、京都で越年して宝永2年5月末に江戸に帰った。江戸の家を守っていたのは子光か僕伝九郎、それに雁山であったのであろうか。...
View Article素堂の一族
素堂の一族 素堂の家譜は『連俳睦百韻』と『甲斐国志』以外には伝わらない。この両書とても不十分な記述であり、他の俳諧系譜の家譜に関する記述は『甲斐国志』をもとにしているものが多く見られ、それに正確さを求めることはできない。また予断ではあるが、『甲斐国志』が独自に記載している『甲斐府中、濁川改浚工事』関与の記事は誤伝で『甲斐国志』編纂者の創作である。どうしてこのような過ちを犯してしまったのであろうか。...
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