武川衆 山高氏(『武川村誌』一部加筆)
武川衆 山高氏(『武川村誌』一部加筆) 一 山高氏の発祥 鎌倉末期の甲斐守護、一条源八時信は、多くの子弟を巨摩郡旧真衣郷の諸村に分封し、いわゆる武川衆の祖となったことで知られる。...
View Article武川衆 山高氏の消長
二 山高氏の消長 甲斐守護一条甲斐守時信は、嫡男の甲斐太郎信方を一条小山城主(甲府)にしないで、武川山高村(当時は山高郷ともいった)に封じた。のみならず、嫡男以外の諸子もことごとく武川の白須・教釆石・青木・牧原などの村々に封じ、自領の一条郷には一人も封じなかった。...
View Article室町時代の 武川衆 山高氏~11代
室町時代の山高氏室町時代に入って、山高氏はどのように発展したか。この時代は史料の欠けた時代で、記述が困難なので、歴代の名前にとどめる。❖山高氏歴代 初代 信方一条与次義行の長男で、祖父一条総領甲斐守時信の嫡男として過され、山高甲斐太郎と号し、のち甲斐守となり、山高村に拠る。延文元年(一三五六)四月五日没。葬地 山高村高龍寺。二代 信武太郎、永徳三年(一三八三)十二月二十一日没、葬地、父に同じ。三代...
View Article武川衆山高氏 一四代、山高信吉 十五代 山高信賢 十六代、山高信禮(のぶいや)
一四代、山高信吉一四代信吉は信俊の嫡男で、元和三年(一六一七)の誕生で通称を新右衛門といった。正保元年(一六四四)二十八歳で将軍家光に謁し、大番に選ばれた。親吉の父信俊も寛永十九年(一六四二)に大番に選ばれていて、山高氏と大番とは関係が深いので略説を加える。...
View Article武川衆後裔 山高石見守信離(のぶあきら)
山高石見守信離(のぶあきら)幕臣としての信離 第一七代以後山高家当主は次の通りである。 一七代 信蔵 一八代 信肪 一九代 信成 二〇代 信友 二一代 信行 二二代 信求二三代 信陸 二四代 信復 二五代 信厚 二六代 信離 二七代 五郎 二八代 登 と連綿と続いて今日に至っている。右のうち二〇代までは『寛政重修諸家譜』に見えるので、本稿では巨人第二六代信離を特記したい。...
View Articleパリ万国博覧会 山高信離
パリ万国博覧会 パリ万国博覧会は、慶応三年(一八六七)五月に開催される世界的規模の博覧会である。幕府は、長州征伐に失敗して弱体を露呈し、起死回生の機会と方法を模索していた。これに対し、友好の手を伸ばしてくれたのが、駐日フランス公使のレオン・ロッシュであった。...
View Article武川衆末裔 明治政府官僚としての山高信離
明治政府官僚としての信離 明治維新の大変革によって武家政治は終わり、天皇親政の新政府が成立したが、明治政府の当面した障壁は人材の払底であった。 欧米先進諸国に追いつかねばならぬ、との至上命令を課された明治政府にとり、最大の課題は、新進の頭脳と力量をそなえた人材をいかにして得るかにあった。...
View Article武川衆 山高別家
山高別家 山高親重が一家を創立する 武川衆山高家の第一二代宮内少輔信直の男親重は、通称を孫兵衛といい、天正二年に生まれた。母は逸見兵庫頭の息女といわれる。 逸見家の祖はもと甲斐源氏の総領であった。のち総領を武田氏に譲ったが、武田・小笠原とならび称された甲斐源氏中での名門である。 山高家が逸見家と縁組みしたことから考えても、その家格の高かったことが窺われよう。...
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