山高石見守信離(のぶあきら)
- 幕臣としての信離
第一七代以後山高家当主は次の通りである。
一七代 信蔵 一八代 信肪 一九代 信成
二〇代 信友 二一代 信行 二二代 信求
二三代 信陸 二四代 信復 二五代 信厚
二六代 信離 二七代 五郎 二八代 登
と連綿と続いて今日に至っている。右のうち二〇代までは『寛政重修諸家譜』に見えるので、本稿では巨人第二六代信離を特記したい。
山高信離は、
天保十三年(一八四二)に生まれた。生家は山高家でなく、高二、五〇〇石の旗本、掘家である。掘家は鎮守府将軍藤原利仁の後裔で、織豊時代にあたり名将掘秀政・利重兄弟が出て家名をあげた。利重の二男利直の六世を伊豆守利堅といい、高二、五〇〇石、書院番の旗本であった。利堅の四男慎八郎は、山高家二五代信厚の養子となり、元服して蘭之助信離(らんのすけのぶあきら)、通称を弾正、また主計といい、文久初年から小納戸に出仕した。
慶応二年(一八六六)一二月、一五代将軍の弟昭武(水戸徳川家九代藩主斉昭の一八男)が清水家を継ぐが、パリ万国博覧会の幕府代表として急遽出発、幼い昭武の守役として山高信離(のち上野博物館長、京都博物館長。区内弁天町の宗参寺に墓。儒家の林家から山高家に養子に出た人物である。次男の曄は林家に嗣子がないために林家を継ぎ、医者に転じて現在の林外科病院を創立している。)が随行し、苦労している。幕末の動乱のため薩摩藩も別個に万国博に出品して混乱。それぞれ「日本大君政府」、「薩摩大守政府」と名乗り、日本は権力争いをしている二国が存在する国としてパリの話題に上ったという。(つづく)幕府の職員録『柳営補任』御小納戸(りゆうえいぶにん おこなんど)の項に、
文久二年(一八六二)口月 岩瀬内記支配ヨリ
文久三年(一八六三)正月二十二日 御小納戸 高千八百石 弾正 山高蘭之助 と見えるが、ついで二条城勤務に転ずる。
文久三年(一八六四)正月二十二日 中奥御番ヨリ
元治元年(一八六四)三月十六日 二条ニ於テ 御目付・御小納戸、山高弾正と見える。信離はしばらく京都に転ずる。
元治元年三月十六日 御小納戸ヨリ
同年五月十五日 御役御免、寄合 主計 山高弾正信離
と見える。三月十六日に京都二条城での御目付兼御小納戸に転じた。
ここで二か月勤めた上で御役御免となり、寄合を命ぜられた。禄高三、〇〇〇石以上で非職の旗本を寄合、禄高三、〇〇〇石未満の非職の者を小普請という。この時はじめて主計山高弾正信離と記された。
二条城勤務とは京都公家筋との交渉であろう、目付兼御小納戸は将軍側近の要職である。
寄合にあること二年余、再出仕の機を得た。
慶応二年(一八六七)八月十八日、寄合ヨリ再勤
十二月十二日、小倉表へ御取締御用ノタメ遣ハサル。
十二月二十七日、京都ニオイテ御作事奉行格御小姓頭取、山高主計信離
と見える。二年余の休職ののち、にわかに多忙の日を迎える。小倉への出張ののち、同年十二月、京都において作事奉行格兼御小姓頭取に補任された。これは重職に任ずるための準備工作であった。やがて年が明けると、布衣山高主計信離は、まず従五位下に叙せられ、ついで石見守に任ぜられた上で、フランスのパリで開催される万国博覧会に日本江戸も幕府を代表して出席する使節、将軍徳川慶喜名代徳川民部大輔昭武の傳役(もりやく)を命ぜられた。