山高家十二代 山高信直
山高家十二代は信直である。
天文二十二年(一五五三)の生まれで、通称は将監、宮内少輔と称した。父宮内信親が三方原合戦で討死したとき、信直は二十歳であった。
「山高系譜」に、
(前略)父信親(三方原に)討死の日の朝、認むる処の遺
書を武田左馬助信豊君に指上るに付、諏訪の二十五騎衆は召上げられ、信玄公より弓組の足軽、信州長窪の衆三十人を預
けらる。其の後、信豊君の命にて武者奉行となる。
天正乙亥三年(一五七五)五月廿一日、参州長篠において鉄砲に当る。脇の腹より馬の太腹かさして、後の腹まで打貫
かれ、鉛丸腰下にとどまりし。其の後に切割き、玉取出して治療す。其の後、上野膳の表においても、亦鉄砲の深手を負ひぬ。
天文十年(一五四一)壬午年三月三日勝頼公新府御開の時、信豊君には御持城御引籠、時節を見合わせ候へと勝頼公の給ふ故に、小室の城に御引寵成さるるに付、武川の者共も各々の小屋に暫く引寵り、動静を窺ふべしと信豊君より御□ありたれは、伯父柳沢兵部して申合せ、小屋に引寵り(下略)
とある。この記録は『寛政重修諸家譜』の信直譜には見えないもので、重要である。
信直の父、宮内信親が諏訪の二十五騎衆を預けられていたこと。元亀三年の三方原合戦を前にして遺書をつくり、武川衆寄親の左馬助信豊に捧げ、心おきなく壮烈な討死をした。その結果、信親に預けられていた諏訪の二十五騎衆は召上げられ、代わりに弓組の足軽である信州長窪三十人衆が信直に預けられた。
信直は、のち左馬助信豊によって武者奉行を命ぜられる。武田氏の軍制には旗本武者奉行はあるが、武者奉行は見えない。これは、左馬助信豊部隊のうちだけに用いられた、軍目付(陣中での監察官)の称呼であったと思われる。
天正三年(一五七五)五月の長篠合戦では奮戦し、敵弾を脇腹から腰部に受けたが、のちに外科手術により腹部を切り開き、残留していた鉛銃弾の創出に成功し、生き延びることができた。
天正八年(一五八〇)十月、上州膳城攻略の時も銃弾を受けて重傷を受けたが、生命に別条はなかった。この膳城攻略の際、信直と同じ武川衆の柳沢信兼、宮脇伝次郎・横手信俊(のち柳沢)らが勇戦したが、柳沢・宮脇が軍法に触れたとして改易に処せられたことは気の毒であった。
天正十年壬午(一五八二)三月、左馬助信豊は、勝頼の意を受けて再起を期し、武川衆には各々の小屋(支配地内の塁砦)に籠り待機するよう命じた。ところが、戦局の悪化は意想外に早く、新府落城、田野の悲劇に続く落城で、武川衆は団結の中核となる信豊を失ったのであった。
武田氏を滅ぼした信長は、信玄以来の怨念を晴らすべく武田勢の残党狩りを企て、多くの有力武将を甘言で招きよせ、殺戮した。武田逍遥軒・小山田信茂・葛山信貞らはその例である。
これより先、徳川家康は武田親族衆の最有力者穴山梅雪を降伏させ、その嚮導により富士川谷をさかのぼり、市川文殊堂(表門神社)に到着すると、一条上野介の籠る上野城を改めてこれを陥れ、信長の政策とは別に武田遺臣の招降につとめた。「山高系譜・信直」の項に、
一とせ、信玄公御代に成瀬吉右衛門、参州より甲州に来れる時、折井淡路守馳走して帰さる。其の後甲州滅亡の後武川の者共申合せ、成瀬吉右衛門に拠り御家に属し度き旨、折井淡路守・米倉主計助これを申す。早速上聞に達したるが、其の比織田右府より甲州の士御召抱の事、堅く禁じらるるに依り甲州市川に潜むを召出され、拝謁し奉る。残る武川の士兵は能き時節を以て召さるべきに付、両人は遠州桐山の辺に忍び有るべき旨仰出され、両人は遠州に赴き、其の余は武川に潜居す。
とある。折井淡路守は市左衛門尉次昌の官途で、成瀬が甲州に亡命し武田氏に仕えていたころは淡路守といい、成瀬をよく世話した。
淡路は下国で、その守は従六位下、市左衛門尉は従六位上で、昇進の次第も順当である。徳川家出仕以後、次昌がもっぱら市左衛門尉を名のるのは、もっともなことである。ついでに言えば、米倉忠継の主計助は正六位下相当であるから、折井より一級だけ上位である。
武川衆は、主家滅亡後より協議して徳川家康に属することに一決し、折井・米倉を代表として、かねて折井が武田氏時代に世話した間柄である家康の謀臣、成瀬吉右衛門尉正一にその旨を申し入れた。成瀬を通じて武川衆の帰属の意向を知った家康も、当時織田信長が武田遺臣の召し抱えを厳禁しているのに鑑み、成瀬をたよって市川に来、家康の意向をぅかがっていた折井・米倉両人だけを保護することとし、残る武川衆諸士は、適当の時期に召し抱えることとした。その結果、両人には生活費を与えて遠州桐山村に潜居させ、残る武川衆諸士には武川の地で待機させた。
山高信直は、武川に待機する多数武川衆の元締として、時節が熱するまで信長の代官河尻秀隆の圧制に耐えていたのであった。
果然、六月二日本能寺の変で信長は亡びた。以後の武川衆の動静につき「山高系譜」に、
六月二日織田右府生害の後、神君泉州堺より御下向遊ばされ、折井淡路守其の子市左衛門・米倉主計助を召出だされ、早々甲州に罷帰り、一族の者ども帰せしむべき由を仰出だされ、各ミ武河に馳下り、武川の者共へ先の上意を達しぬ。信直始め心を合せ、御先手勢に馳加はり、走廻る。時に北条氏直若神子辺へ発向し、武河筋信州の境殊更新府の城下は枢要の地なる故、武河の者共各々味方に属すべき旨、再三いふと雖も承引せずして、却て北条に属する信濃の境小沼小屋、武河の者共追落し、神君新府御着座の節、初めて拝謁し奉る。
とある。徳川家康は本能寺の変の直後、伊賀越えの難に九死一生を得て堺を出て三日目の夜三河岡崎に帰城するや、当時駿府に在城の岡部正綱に次の書状を与えて、甲州河内下山に移り、城砦構築を命じた。
此の時に候の間、下山へ相移り、城見立て慌て普請成さ
るべく侯。
委細は左近右衛門尉申すべく候。恐々謹言。
(天正十年)六月六日
家康 (花押)
岡次まゐる。
下山は甲州河内の邑で、穴山氏の城下である。この書を右衛門尉正綱である。家康の意をうけた正綱は、武田の遺臣で早く帰順した曽禰昌世を伴って入峡し、十二日より河内領内築城と、領民の宣撫に着手した。
ところが、信長の代官河尻秀隆は甲府に在って暴政を行っていたが、本能寺の変以後、にわかに士民懐柔政策に転じたにもかかわらず、秀隆の施政を恨む士民の反撃を受け、同月十八日、躑躅崎の東方、岩窪村で虐殺された。家康は、岡部らに次いで重臣大須賀康高に命じ、成瀬吉右衛門尉正一・日下部兵右衛門尉定好らをして梅雪の子勝千代の率いる穴山衆を督励させた。康高は市川に陣し、岡部以下の諸将に命じて甲州の武田遺臣を招かせた。
これより先、遠州桐山村に潜んで待機していた武川衆折井・米倉両人は甲州へ急行し、これも待機していた山高信直以下、在地の武川衆六十騎を導いて七月九日の朝、右左口宿の南なる柏坂に登り、前日精進宿に泊まって当日早朝出発、柏坂に到着した家康を迎えた。
武川衆全員の勢揃いを見た家康は満足し、米倉・折井両人に対し、次の感状を与えた。
其郡において、別して走り廻るの由、祝着に候、おのお
の相談あり、いよいよ忠信を抽んでらるべく候。
恐々謹言
(天正十年) 七月十五日 家康(花押)
米倉主計助殿
折井市左衛門尉殿 (寛永諸家系図伝)
家康が、さきに折井次昌・米倉忠継らを遠州桐山村に保護したことは、両人以外の武川諸士の妻子をも人質としたことが推察され、武川衆諸士が相互に自重、団結したのである。ここに武川衆の強さがある。この感状には、折井・米倉両人を裏切らなかった武川衆全員に対する家康の賞讃も含められていると思う。「山高系譜」は続いて述べる。
氏直と御対陣中、かさねて北条より武河の者共相招き、計策の状を取次ぎし侍両人有り、中沢縫殿右衛門・同新兵衛なり。武河の者共相談し、彼二人を討捕、其状ともに新府に指上ぐも辺見・日野台・花水坂より武川筋へ敵兵度々忍び下る処に、信直、柳沢兵部丞信俊と相議し、三吹の台に手勢を伏せ待つ処に、敵兵忍び来しを追払ひ、家来の者共生捕、首二級を得て則ち新府に指上る。御褒美として青銅三貫文宛を給はる。
と。武川衆山高信直・柳沢信俊両人が、若神子より日野台、花水坂を越えて敵勢が来攻するを、中山の麓三吹の台に手勢を伏せて待ち受けて捕え、また首二級を獲て、これらを新府の家康に献じ、青銅三賞文宛賞賜されたのであった。
蔦木氏
「山高系譜」の信直の項には、蔦木氏に関する注目すべき一節がある。いわく、
諏訪安芸守未だ御家に属し奉らざる以前、諏訪方にこれある知見寺越前と昔年信直交を結びしゆへ、御味方に属せしむる処において、越前、武河と一統に成りて忠節を尽しぬ。其後程なく諏訪も帰りぬ。
と。この記述と、『寛政重修諸家譜』・「蔦木家譜」の記事の間には相当の相違点を認める。いずれが是か、いずれが否か、なお研究を要するものがあろう。
『寛政重修諸家譜』の収める「山高家譜」、信直の譜においては天正十年七月以降の家康と北条氏直との交戦の際における信直の功績を叙した次に、同十二年の尾州長久手の役には、家康の命により武川衆の面々とともに信州勝間砦を守ったことを記した。思うに、真田昌幸の攻撃に備えたものであろう。家康は長久手の役で豊臣秀吉の軍を完膚なきまでに揉爛し、秀吉の心胆を寒からしめた。
ついで同十三年の真田昌幸の篭る信州上田城攻めには、思いがけない敗北を喫している。この役に先立ち、家康は武川衆の面々に対し人質の提出を求めた。それは真田昌幸と豊臣秀吉に対する慎重な配慮の結果であろう。家康が妻と嫡子を人質に出すことを求めたのに対し、武川衆の中、次の諸士は子弟・親類の者までも駿河興国寺城に送り、誠意のほどを示したのであった。
折井淡路守次昌・曽雌帯刀定政・山高宮内少輔信直
米倉主計助忠継・同左大夫豊継・曲淵勝左衛門尉正吉
山寺甚左衛門尉信昌・青木尾張守信時
伊藤三右衛門尉重次・知見寺越前守盛次
らである。
いつもながらの武川諸士の誠意に、家康は翌十四年正月十三日に次の感状を与えた。
今度、証人の事申越し侯の処、各ミ馳走有り、差図の外、兄弟親類を駿州へ差越し、無二の段、まことに感悦し候、殊に去る秋の真田表において万事情(精)を入れ、走り廻り候旨、大久保七郎右衛門尉披露し侯、是れ亦た悦喜せしめ候、委細は両人申すべく候
(天正十四年) 正月十三日 家康 (花押)
武川衆中
また家康の老臣大久保忠隣と本多正信からも、次のような連署の添書が与えられた。
今度、証人の儀について平七(親吉)・成吉(正一)よりその断りを中越さるるの処に、御差図の外、若衆・妻子まで駿州へ引越し慌て、無二の御奉公有るべきの由、即ち披露におよび候処、大形ならず御祝着に及び候、殊に去る秋真田において大久保七郎右衛門尉申上げられ候、毎度御無沙汰存ぜられず候間、御悦喜成され候、これに依り各々へ御直書遣わされ候、いよいよ御奉公油断なき体、肝要に候、恐々謹言
(天正十四年 一五八六) 正月十三日
大久保新十郎忠隣
本多弥八郎正信 岡崎ヨリ
武川衆中
御宿所
各々へ御直書を遣わされ候、と大久保・本多両人から添書が出されたことは、武川衆の一人一人に家康から感状が出たとの意である。
天正十七年(一五八九)伊奈熊蔵に命じて甲州に検地を行い、知行も貫高から俵高に改めた。これはやがて石高に移行する過程であった。このことを信直は家譜に「重恩の地を賜う」と記している。重恩の地とは山高郷の内、とみられるが、同年十二月十一日の伊奈熊蔵の武川衆知行書立によれば、山高郷の内で一八〇俵となっている。この時、山高郷の総俵高は四七八俵壱斗四升三合七勺三才である。しかし、翌十八年二月、「武川衆御重恩の地方」の内に「七拾三俵壱斗五升弐合六勺壱才 山高郷之内」とある。したがって前の一八〇俵は名田(祖先伝来の地)で、それに七三俵壱斗余の地を重恩の地と称したものであろう。恩地は恩賞の地である。天正十七年の時点で信直の知行高は山高郷内二五三俵壱斗余とみてよいのではないか。
天正十八年(一五九〇)小田原の役に従軍。八月家康の関東移封に際しては采地を武蔵鉢形に移され、その地において一二〇石を知行した。
天正十九年(一五九一)奥州九戸一揆の時は、大久保忠世に属し、男孫兵衛親重とともに岩手沢に供奉した。相組は小菅大学・武川衆・芦田衆・三枝土佐守・下曽根三十郎・津金衆であった。
文禄元年(一五九二)朝鮮陣の時は豆天城山より軍船建造用の船板材を伐出す。
慶長五年(一六〇〇)関原役には徳川秀忠に従い上田攻めに従ったが、病のため子親重に代行させた。
慶長八年(一六〇三)三月加恩七五石を賜い、武蔵男余郡の内ですべて二〇〇石を知行した。
寛永二年(一六二五)四月二十日死去、七十三歳。法名安里玄心居士。山高村高龍寺に葬られた。