二 山高氏の消長
甲斐守護一条甲斐守時信は、嫡男の甲斐太郎信方を一条小山城主(甲府)にしないで、武川山高村(当時は山高郷ともいった)に封じた。のみならず、嫡男以外の諸子もことごとく武川の白須・教釆石・青木・牧原などの村々に封じ、自領の一条郷には一人も封じなかった。
時信は武田支族一条氏の長であったが、承久(一二一九年~二一年)以降武田総領家の不振に当たり、時信の祖父信長以来、宗家に代って甲斐源氏諸氏を統べて甲斐の治政に当たり、関東御家人として鎌倉幕府に勤任し、怠るところがなかった。
時信はまた敬慶で仏道を崇め、遊行二世真数上人に帰依して仏阿と号し、弟の六郎宗信を真教の弟子として修行させた。この人が後年の法阿
弥陀仏朔日上人である。時信は一条小山の麓にあった尼寺一条道場を僧寺に改め、自身が檀那となって一条道場一蓮寺を開基し、朔日上人を開山に請じた。以来、歴代の住職は武田家の男子が出家して住山する例となった。
時信は元亨元年(一三二一)正月二十七日に没したが、そのころ、時信の諸子は武川の各地に拠っていた。しかし、それぞれが一条郷内外の父の遺領を譲与され、後年その一部を亡父の菩提のために一蓮寺に寄進したことが、『一蓮寺寺領目録』によって確かめられる。たとえば時信死後十一年の正慶元年(一三三二、南朝元弘二年)三月十日、一条十郎入道道光は、一条郷内某地一町七反を、また同二年四月十五日、一条八郎入道源阿は郷内持丸一町五反を寄進している。一条十郎入道道光とは、時信の男十郎時光の法名で、同じく八郎入道源阿は八郎貞家であろう。時光は武川衆青木氏、貞家は同牧原氏の祖であるが、この場合の施主名はすべて一条某である。また受けいれ側の一蓮寺も、山高の一条殿と呼ぶべきところを山高殿、同じく青木の一条殿を、たんに青木殿、牧原の一条殿をたんに牧原殿と呼んだものと思われる。初期の武川衆は一条氏を名のり、一連寺の檀那であった。
しかし、山高氏が史料の上で初めて確認できるのは、延文元年(一三五六)四月五日の『一蓮寺過去帳』の記事である。すなわち、「延文元年四月五日 正阿弥陀仏 山高一代」とあるのが山高氏の初見で、信方の父時信が世を去った元亨元年(一三二一)から数えて、じつに三五年もの年月を経た後のことである。
信方の功績は、一条甲斐太郎、一条甲斐守の称号が示すように、時信の亡き後、幼年を顧みず、甲斐源氏一条氏の総領を勤めたこと。また、甲斐源氏の総領武田信武をたすけてその部将となり、武家方として行動した。文和元年(一三五二)三月二十八日、武蔵と信濃の境の笛吹嶺において宮方の宗良親王・新田義宗との戦いに、武家方足利尊氏に味方して戦った。
甲斐源氏武田陸奥守・同刑部大輔・子息修理亮・武田上野介・同甲斐前司・岡安芸守・同弾正少弼・舎弟薩摩守・小笠原近江守・同三河守・舎弟越前・一条太郎・板垣四郎・逸見入道・同美濃守・舎弟下野守・南部常陸介・下山十郎左衛門、都合三千余騎ニテ馳参ル。(中略)同二十八日将軍笛吹手向(峠)へ押寄テ(中略)先一番ニ荒手ナリ、案内者ナレバトテ、甲斐源氏三千余騎ニテ押寄セ、新田武蔵守卜戦フ、是モ荒手ノ越後勢三千余騎ニテ、相懸リニ懸リテ半時計り戦フ:、逸見入道以下宗徒ノ甲斐源氏共百余騎討クレテ引退ク(下略)(『太平記』)
この笛吹嶺の戦いで、甲斐源氏ことに逸見一党は大損害を蒙ったが、この戦いの直前に一条三郎・白洲上野介の二将が活躍している。
逸見一党が多数の戦死者を出している以上、一条支流武川衆にも損害があったと思われるが、よくわからない。南北朝抗争五十余年、結局南風競わず、武家方の勝利で局を結ぶのであるが、勝利側に立ったとはいえ、甲斐源氏の蒙った痛手も少ないとはいえない。武田信武・一条信方らの協力について、足利尊氏は深く感謝し、子孫に対しよく甲斐武田氏に報いるよう遺命したという。
室町時代に入って、山高氏はどのように発展したか。この時代は史料の欠けた時代で、記述が困難なので、歴代の名前に
とどめる。
山高氏歴代
初代 信方
一条与次義行の長男で、祖父一条総領甲斐守時信の嫡男として過され、山高甲斐太郎と号し、のち甲斐守となり、山高村に拠る。延文元年四月五日没。葬地 山高村高龍寺。
二代 信武
太郎、永徳三年十二月二十一日没、葬地 父に同じ。
三代 春万
太郎
四代 信行
太郎左衛門尉
五代 経春
太郎左衛門尉、一本太郎兵衛尉につくる。
六代 景信
太郎兵衛尉、一本太郎左衛門尉につくる。
七代 信基
孫兵衛尉
八代 基春
石見守
九代 信之
越後守 武田信虎に仕え、天文九年二月九日没す。法名甚秀道満禅定門、甲斐国巨摩郡山高村高龍寺に葬る。のち信直に至るまで葬地これに同じ。
一〇代 親之
石見守 武田信虎および信玄に仕え、武川衆の旗頭であった。信玄の命を受け、武川衆をひきいて武田左馬助信繁の隊下に属した。永禄四年九月十日の信州川中島合戦に信繋が討死した時、親之は敵を討捕り信繋の首級に添えて信玄に献じた。このことにより、信玄は信繁葬送のことを親之に命じた。永禄九年六月十八日に没した。年五十八歳。法名を泰翁是快禅定門という。親之の女は知見寺家に嫁した。
一一代 信親
宮内 信玄に仕え、永禄十二年相州小田原に発向し、十月六日の三増峠合戦のとき、奮戦して敵首を獲た。元亀三年十二月二十二日、遠州三方原合戦において討死した。四十二歳。法名越岩常秀禅定門という。妻は武田家臣武川衆青木尾張守信立の女。
信方より信親まで一一代、鎌倉末から室町末戦国期に至る二百五十余年、なかんずく中間期の史料乏しく、記事不備なのは遺憾である。