パリ万国博覧会
パリ万国博覧会は、慶応三年(一八六七)五月に開催される世界的規模の博覧会である。幕府は、長州征伐に失敗して弱体を露呈し、起死回生の機会と方法を模索していた。これに対し、友好の手を伸ばしてくれたのが、駐日フランス公使のレオン・ロッシュであった。
彼は幕府を後援する方策の一として、パリ万国博覧会への参加を幕府に熱心に勧告した。幕府でも、開国政策の実効をもたらすよい機会と判断し、積極的に準備を進めることとし、当時、横須賀製鉄所建設計画協議の使命を帯びて渡仏中の柴田日向守に命じ、フランス政府に対し招請を受諾する旨を申し入れさせた。
その結果、幕府は将軍家名代使節として徳川昭武を決定した一。昭武は慶喜の弟で当時十四歳の少年であるが聡明利発であるから、すぐれた輔佐役がいれば立派に役が果たせよう、ということになり、昭武を民部大輔に任じ、
傳役としては山高信離を最適の人物と認め、その前提として石見守に任命したものである。
徳川民部大輔昭武とその随員二九名、大部分は史上に名をのこした人物である。
正使 徳川民部大輔昭武
傳役 山高石見守信離
若年寄格・駐仏国公使 向山隼人正一履
歩兵奉行 保科俊太郎
外国奉行支配組頭 田辺太一
外国奉行支配調役 杉浦愛蔵
儒者次席・翻訳方頭取 箕作貞一郎
勘定格陸軍附調役 渋沢篤太夫
奥詰医師 高松凌雲 (以下略)
慶応三年(一八六七)正月十一日、フラソス船アルヘー号に乗り込み、横浜港を解纜(ラン ともづな)し、途中上海・香港・サイゴン等に寄港しつつ、マルセイユ経由で大博覧会の催されるパリに向かった。
随員の中の渋沢篤太夫と杉浦愛蔵の二人は、この当時の見聞を詳細に記録、評論して共著『航西日記』をのこしている。この共著には当時先進国の文物が彼等の限にどのように映じたかが、いきいきと描かれている。
横浜を出てから一五日を経た二十六日に、サイゴンに上
陸した。この地は当時仏領印度支那といわれたところ(いまはベトナム)の首都で、総督(鎮台長官)が駐在していた。
慶応三年正月二十六日(西洋暦三月三日)サイゴンにて朝七時、本地官船の迎によりて陪従して上陸す。軍艦祝砲ありて、騎兵半小隊馬車前後を警護し、鎮台の官邸にいたる。席上奏楽等畢りて、其の本国の博覧会に模擬せし、奇物・珍品を雑集せる所を一見し(下略)
とあって、総督官邸に博物館的施設が付設されていたことを記している。
二月二十二日 (西洋暦三月二十七日)アレクサンドにて、(前略)此の地は古国にて殊に首府なれば、古器物の考証に備ふべきもの多く博覧会場に収めてあり。皆太古の物にて、多くほ土中より掘出したる棺櫛の類と見ゆ。(中略)戸も腐朽せず、依然と乾からびたる手足・腹部とも幾重も巻きたるなり、世にいわゆるミイラならん。(下略)など、寄港地の博物館の所見を記している。
三月七日、いよいよフランス首府パリ到着。同月二十四日の使節徳川民部大輔昭武は、皇帝ナポレオン三世に謁見し、国書を捧呈した。
国書の内容は、源慶喜の名で、パリ万国博覧会の開催を祝し、使節をして同盟のよしみを表わさせること、なお使節昭武をパリに留学させるので、よろしく指導を請うと述べ、皇帝への贈呈品五点の目録が別に記された。
その第一に水晶玉とある。甲州産であろう。博覧会場についての記事に触れよう。
五月十八日(西洋暦六月二十日)午後二時より博覧会を観るに陪す。荷蘭留(フランス)学生等も従へり。博覧会場はセイネ(セーヌ)河側に一箇の広敞(ショウ 高い)の地にて周囲凡そ一里余、(中略)其中心は形楕円にして巨大の星宇を結構し、門口四方より通じ、彩旗を立て繞らし、(中略)東西諸州此の会に列する国々、其排列する物品の多寡に応じ、区域の広狭を量り各部分を配当せり。仏国は自国の事故最も規模を盛大にし(中略)英吉利は其六分の一を占め、白耳義(ベルーギー)は其十六分の一を占め、魯西亜(ロシア)・米利堅(アメリカ)は三十二分の一に過ぎず、西班牙(スペイン)・都児格(トルコ)は其半にして、葡萄牙(ポルトガル)・希臘(ギリシャ)は又其半に過ぎず、我邦の区域も是等と同等にして、これを支那・暹羅(シャム)両国と三箇に分ちて配置せしが、我邦の物産の多く出でしにより、遂に其半余りを有つに至れり。場中排列する所のもの(中略)自然の化育によりて成る物、或は窮理の上より神を極め精を盡して造りし物(中略)古器珍品を衆めて残す所なく、下は現世発明の新器を陳ねて余すことなし。
と記し、精巧な蒸気機関、これを使ったエレベーター、アメリカ出品の耕作器械・紡績器械の精妙なこと、スイス製電信機の卓越していることに感歎している。杉浦・渋沢らが『航西日記』に記した感懐は、使節昭武・博役山高信離のひとしく共にしたことであろう。『徳川昭武滞欧記録』の中に「博覧会出品目録」にその詳細がのせてある。のべ数千点におよぶ出品物の中には、鉄砲・太刀・甲胃などの武具を始めとし、雁皮紙・美濃紙などの和紙類、梗米・粟・蕎麦など穀類、鍬・万能・稲扱など農具の炉、『農業全書』・『農家益』などの農書にまでおよんでいたという。
しかし、陳列品の内容は、欧米先進国の精巧をきわめた工業製品と、東洋後進国の農業を主とした製品とが歴然と比べられて、当時の後進国日本の有様が痛々しく、一世紀余りの今日から回想して今昔の感に堪えない。
パリ万国博覧会が終わると、使節昭武は幕府と締盟した各国を歴訪することになって、スイス・オランダ・ベルギー・イタリア・イギリス等を訪問し、元首に謁見した。信離も主席随員の一人として随行した。諸国歴訪を終えると昭武はパリ留学の身となり、信離は傳役を免ぜられて留学生取締役を命ぜられた。
こうしている間に、同年十月十四日、徳川第十五代将軍慶喜が大政奉還をしたので、昭武以下は帰国することになった。また徳川宗家では慶喜が隠退し、田安亀之助が宗家をついで徳川家達と改名した。朝廷では慶応四年(明治元年)五月、家達を禄高七〇万石の静岡藩主に補任し、有能な旧旗本を抱えさせた。
信離は、幕府瓦解とともに弾正・主計・石見守等の称号をやめ、慎八郎の通称に復した。
静岡藩当局では、信離に対して藩に出仕を命じて大目付に補し、翌明治二年正月に相良奉行として地方の行政に当たらせた。
藩では静岡学問所を開設し、かつての仏国公使向山黄村を頭取(校長)とし、信離の盟友杉浦譲は同学問所の五等教授に任命された。