一、富士山 嬉遊笑覧(喜多村信節)
○富士の高さは甲州富士吉田表口に高さ四丈三尺の鳥居あり。これより山頂まで三百五十七町十七間ありといへり。されど山上にまだ高き峰どもめぐり立り。俗に八葉のみねなどいへり。その高さ知べからず。此山むかしより焼ぬけては烟絶たることしばしばなり。『古今集』の序に烟絶しことをいひ『更級日記』にはけふり立のぼり夕暮れは火の燃え立つも見ゆ。といひ(空暗くなれば烟赤くみゆるなり)『十六夜日記』にはふじのけむりのすえも朝夕たしかに見えしものをいつの年よりか絶えしとゝへばさだかに答ふる人なしと有り。山の焼出たることは『続日本記』に天応元年(781)七月駿河国言富士山下雨灰之所及木葉彫萎『日本後記』延暦十九年三月十四日富士山嶺自焼(ことことを『都良香の記』に山東脚下有小山、土俗言之新山、本平地也。延暦二十一年三月雲霧晦□、十日而成山、盖神造也とあり。宝永の時に山のいできにおなじ)
○『三代実録』に貞観六年五月富士山焼『鹽尻』に宝永四年十一月二十二日辰の時より駿州富士足高山のかたすぼしり口おびたゞしく燃上り云々。十二月九日頃に止富士近国灰砂降これを除く人夫銀天下秋米百石の地に金貳両づゝ課役かゝりけるに西国にてよめる「富士の根の私領御料に灰ふりて今に二りやうにかゝる国々。
○仁田四郎が富士の穴に入て帰りしは一昼夜に及ばず。
○富士山に登りて自ら餓死したる身祿といひし者あり。伊勢国市志下河上の荘の産にて伊藤氏なり。名を伊兵衛といふ。八歳の時大和国宇田郡なる小林氏の者の養子なりしが、十三歳の秋古郷に帰りぬ。其頃江戸本町二丁めに當山清右衛門といふ呉服店あり(清右衛門後に甚左衛門と改)ゆかり有るけるにや江戸に下り其店に僕となりて有しが、十七歳にてそこをも退ぞき下谷邊の武家(小泉氏あり)などにも中間になりて居れりとかや。その後駒込の邊にかすかなる店を借、水道町に山崎屋半兵衛といふ油屋ありしに便りて油をうけ擔ひ賣しけり。もとより富士浅間を信仰し歳毎に富士に登る事四十年怠慢なく六十三歳にて富士山半腹より上(俗に七号夕めと云)の方にて断食して死ぬ。享保十八年六月十三日より初て食を止め三十一日を経て七月十三日の刻にて終れりと、そこのおもひ企てしは其ころ小傳間三丁目に葛籠屋あり。富士講の先達にて名を光清といへり。此者は講中も広く物ごと手廻りければ身祿常に彼に及ばざる事を歎き居たりしが光清衆人を勤め富士山北口に浅間堂を建立せり。(光清の家今にあり)身祿是をみて我力にては生涯に人の目にたつ程のことなしがたしせめて山のうへに餓死して名をとゞめばやとてのしわざと聞ゆ。常に油を賣に貧しさ者に貸したる油代はいつまでも乞はずやうやうかへさんといふ時身祿偽りて其代ははや先にうけとれりとなどといひてかたくとらず。かゞるさまに賣あるきぬれば常に貧しくて彼山崎屋に金六両貳分借りたる事あたはず。山崎屋も是をはたらずして有しが身まからんとする頃これ返し奉らぬこそ遺恨に候へさりながら此報はかならず致し候べしといひしが後に其家のあたりより火出てみな焼しか、どこの家ばかりあやうきをのがれたれりければこはかれがむくひならんといひあへり身祿女ふたりあり。姉をおまんといふは柳沢の家中黒木某に嫁しぬ。妹おはなといふは一行と號し、夫をもたず居たりしが求馬といへる浪人養ひて置り(此浪人はのちに鳩屋の三枝といへる富士講の先達がもとに行て居れりとぞ)身祿貧しければ二人の娘にとらすべき物もなく只糸を針をあたへおのれは身を容るばかりに少く厨子やうなものを作らせ是を背負て富士山にのぼり、水賣十郎左衛門といふものはかねて相知れる故これをかたらひ山の頂にて終らんことをはるかに須山口大宮口等の者どもうけひかさればやむことを得ず。吉田口七合夕めといふに彼厨子めくもの居(すえ)その中に入て食を断日毎に朝戸を開き水を飲で十郎左衛門と物語りして終れり。
この断食三十一日が間水賣に物語したるを記して一巻あり。そを見しにおこなること餘りにて笑ふにも興さめたり死後は水賣とり収しとなり(水賣が家は今田邊十郎左衛門とて北口の御師なり)